お伽噺ですな。
ぼっちになど人権はない。とばかりに導入怒涛のように作品世界にぶちこまれるわけですが、これってようはぼっちに人権なしとかおひとりさま天国云々とかではなく、自分とは異なるコミュニティもしくはカテゴリに対する差別意識への警鐘だったりするんでしょうか。考えすぎか。
しょせんニンゲンなんて群体にすぎないので、共通点のある誰かとしか惹かれ合えない、とでも言いたげに展開するわけなのですよね。(ラストシーンがこれまたせつなすぎるわけだが)
でもなんというか。これといった確証は提示しかねるところではあるのですが、違うのですよ。違うのですよね。どう控えめにみてもデヴィッドは、彼女のことをちゃんと愛していたと思うのですよ。愛していたと思いたいのですよ。
動物にできないことをするのがニンゲン。
自分とは違うものであったとしても惹かれ合ってしまう気持ちを、ひとは愛と呼ぶと思うのですよ。
レア・セドゥ目当てで観たのですが(「聖なる鹿殺し」と同監督でずっと気にはなっていたのですが)、ぜんぜんわかりませんでした。「スペクター」のすぐ後ですよね、時期的に…?