神戸には何度も行こうと思い立ったのに、結局一度も行ったことがない。なので、そこで暮らすとはどういうことかも分からなければ、そこを去るとはどういうことなのかも分からない。しかし、純がフェリーで神戸を去るシーンがこの長すぎる映画においてひときわ輝いていることは、おそらく誰にも異論はないだろう。どうにもやりきれないことばかり起こる映画だが、あそこで純と大紀が交わしたやりとりは、一個上のレベルで全部清算していた。
駒場で三浦哲哉さんの授業にもぐってたとき、やたらとこの映画の話をされていたが、ようやく通しで見ることができた。『ハッピーアワー論』も読んでみたいな。