やまもとしょういち

バービーのやまもとしょういちのレビュー・感想・評価

バービー(2023年製作の映画)
4.8
この作品を通じてグレタ・ガーヴィグやろうとしたことには、100%同意したいし、120%の意思をもって自分のものとして受け止めたいと思う。素晴らしい映画だったと思う。

まず序盤、サーシャがバービーに言い放った言葉ーー「なりたいものには何にでもなれる」と女性の可能性をエンパワーするバービーの理想・メッセージが、何にもなれない、平凡で、大して美しくもない「自分」という現実を照射する呪いとしての側面を持っていることを指摘し、大量消費によって加速され、下支えされてきたアメリカンカルチャーの理想と夢の裏返しとしてのさまざまな罪を糾弾する場面から、グッとアクセルが入り、冒頭の夢見心地の映像世界をぶち壊すようで最高にスリリングだった。

バービーランドでは徹底して添えもの扱いで軽くあしらわれていたケン(現実世界の女性を入れ子状にメタファーしているのでしょう)が現実世界で「男の世界」に触れて反動的にミソジニー/マッチョイズムに一直線に駆け出す展開も強烈に風刺的で最高におもしろい。一方その裏返しとして、この映画で「バービーの世界」に触れてミサンドリーに傾倒しないように、と釘を刺しているようにも受け取れてグレタ・ガーヴィグは最高にクレバーだなとも思った。

現実世界の前提となっている男社会の愚かさや中身のなさ、鬱陶しさを、カウボーイ的な男の悲哀全般、あるいは西部劇など文化までをも含む象徴としての「馬」(そして不意に思い出されるクリント・イーストウッド…)、車、映画、官僚主義、ヒエラルキー、マンスプレイニング、スポーツ、シンセサイザー、歌とギター…など、さまざまなモチーフを用いて、笑いとともに(主に男性の)観客に突きつけ、反省と羞恥で打ちのめすと同時に、「人に好かれようとする女を見たくない」など男社会に洗脳されたバービーランドを解毒するためグロリアによる「男社会での理不尽な女性像の言語化」を徹底して行なうことよって、作品のメッセージを強固に、しかしながらチャーミングに提示していることにとにかく痺れる。

女性の可能性とそれぞれの固有の美しさエンパワーしたうえで、「自分であることを取り戻す」というメッセージ、特別でも、何者でもない人の存在を肯定して「自分自身でいられること、自分らしくいれることの幸せ」を提示する姿勢も本当に素晴らしかった。序盤、人間社会に触れたバービーが、老婦人との会話によって「老いや死も含めて生きることの美しさ」に心を打たれているシーンも感動的だったし、それを回収するような「人間として生きていく」と決めたバービーの選択もただ美しいの言葉に尽きる。

もともとバービーランドは完璧な夢の世界だったわけだけれど、そこに「不和」がなかったわけではないことも重要だと思う。ケンのバービーに対する所有欲と独占欲、見栄や競争心が存在しているわけで、女と男が存在している以上、「争い」のない世界は根本的にありえないということを示唆されているようにも感じられて、その点を深く考えさせられてしまった。すべての争いの原因は男性、あるいは男性性である、と言い切ってしまえれば楽なのだけれど、その立場をとってしまうと種としての存続が危ぶまれてしまう。男である自分はそれでもいいし、自分含め男がすべて悪いと思ってしまいたいものなのだけれど、そうはさせてくれなかったことによって、『バービー』という映画は自分の心に深く残るものになったような気がしている。

地位や権力、お金、あるいは酒やドラッグを含む資源やエネルギーが存在していないか、さほど重要視されない社会であっても、老いや死、変化、つまり時間の観念がそもそも存在しない世界であっても、女と男が存在しているだけで争いの種が存在するという視点は、現実世界に向き合う上でも重要な示唆を与えてくれるように思う。

グレタ・ガーヴィグは「自己認識の欠如が争いの原因」と明確に作中にセリフを織り込んでいることからも、誰もが「自分であることを取り戻す」ことのできること状態こそが戦争を含めた争いのない世界のために必要なことだと考えているようにも受け取れたし、自分はそう受け止めた。フェミニズムの現在を含めそこまでのことを考えさせるだけの作品性を磨き抜きながら、このメッセージが切実に必要な人(男性中心主義、男性社会の快楽に浸り切った人)にも届きうる可能性を十二分に確保した「娯楽映画」の体裁でこの作品を作り上げたことが本当にすごすぎる。

そして鑑賞後しばらく考え続けたのは、シスジェンダー男性の自分にできることは何かということで、それは争いを生まないこともそうだし、すべての争いを終わらせるための努力をすることなんだろうなと思った。グレタ・ガーヴィグさん、ありがとう。