やまもとしょういち

異人たちとの夏のやまもとしょういちのレビュー・感想・評価

異人たちとの夏(1988年製作の映画)
2.9
アンドリュー・ヘイの『異人たち』を観た流れで鑑賞。原作は未読だが、こちらのほうが登場人物が多く、不要な人間関係も描かれることがまず気になり、アンドリュー・ヘイ版はかなりフォーカスを絞って主題を見出し、ミニマルな世界での作劇に務めていたのだろうということを思わされる。

1988年に生きる脚本家の主人公と1960年にこの世を去った両親の価値観の違いに、なんだか無性に悲しくなる。高度経済成長を知らない両親に対して、バブルの真っ只中に生きる主人公……日本生まれ日本育ちの自分は、どうやらここにいくつもの失われたものを見てしまうようだ。作品としてどんな意図があるのかはわかりかねるが、ラストの「みんなどうかしている」というセリフから、やはり1980年代的な病的な感覚を主人公と亡き両親の対話によって浮き上がらせようとしていたのだろうか。

主人公の芝居がかった感じやカット割りの不自然さ、シーン移行の演出の陳腐さ、モノローグによる状況説明の多さなど、映画として見ていられない点は山ほどあったのだけれど、とにかく片岡鶴太郎演じる亡き父が素晴らしかった。気持ちのいい江戸の男という感じの古きよき父親像を見事に演じ切っていた。終盤、すき焼き屋での会話も非常に印象的で、ここを撮るためにこの映画があったのではないかと思わされるほどだった。

仲居さんにわざわざ「俺たちどういう関係に見える?」と問い、「まさか親子だなんて思わねえよな」と言う父、「子どもってなんとかやってくもんなのね」と言う母。

「お前を大事に思ってるよ」「お前に会えてよかったよ」「お前はいい息子だよ」……本当に素晴らしいシーンなのに、ここ以外が全然肌に合わず、複雑な思いになった。

アンドリュー・ヘイ版では主人公に自らの痛みを語らせることによって物語の味を出しているのに対して、大林宣彦版は主人公は居心地悪そうな面持ちながらどこか気取っていて、感情もあまり読み取れないのっぺりとした描かれ方で、映画としての差異、もしかすると日英の文化の違いもそこに表れているのかもと思えて興味深かった。