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フードのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

フード(1993年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

 シュヴァンクマイエルが食を一番嫌悪していることはよく知られている事だが、今作はそのまんまド直球に食事をテーマにしている。朝食、昼食、そして夕食と三部構成だが、それぞれ寓意的に物語っており、単にシュールなだけではなさそうである。

 シュヴァンクマイエル作品には、反復の果ての崩壊が待っている。それは物を使っていけば摩耗するというのを、彼自身の制作の中で見出したテーマと言っていいだろう。ある食事の描写が三つあるが、そのどれもが未来永劫続きそうで、しかし果てには崩壊しかなさそうだなというのが第一部の「朝食」のシークエンスで仄めかされていて、気が遠くなる。あの壁に刻まれた画線法と、足元のゴミと、奥まで並ぶ列は絶望的である。「朝食」のシークエンスは、こんなこといつまでも続くわけがない、しかししばらくは続いていくのだろう、という絶望が感じられる。

 食べ物の写真が高速で並べられていく幕間/編集点としての映像の洒落っ気と、反して食い物がまずく見えるカオス具合。単に洒落っ気ではないところが流石である。食べ物も高速で並べられると、ドロドロした気味悪さがある。

 単に全てストップモーションにせず、普通の速度で撮られた映像を挟むことで、ストップモーションという技法で演出されたというより、人がストップモーション的なキモい動きをする世界観になっている。他の作品でも言えることだが、特に殆ど生の人間で構成されることからも、こうした表現がより冴えている。クローズアップをパッと見せたり、不意にクレイになる人の顔にギョッとしたり、カクカク動くと思えば普通に動いたりとせわしない。子供が物を手に取って見たり、視点が低いからこそ対象物への接近が多いというような、子供のような純(無邪気)な視点とせわしなさを伴うカメラと編集だと思った。妙なグルーヴ感があって、キモいモノを見せてる割に気持ちい編集という矛盾。

「朝食」
 食べては与える側に回る不条理、誰一人腹を満たせない不条理。内容物が変わらないのに食が続いていくというのは、こうやって描かれると不条理に見えるものの、世の中の物質量は変化しないわけで、こうした繰り返しが食や生の根源なんだろうなと思うと同時に、空恐ろしい話だとも思った。殴ったり蹴ったり目を潰したりと、人を機械的に扱いそれに応える人には、資本主義下の人と人のやりとりの揶揄にも感じた。

「昼食」
 富める者と貧しき者との食い合い。やがて全て食い尽くし人々は同等になる。しかし、「裸な者同士仲良くいこうや!」とはならないのが人間。最後まで道具(文明の利器)を隠し持っていたものが、勝者となる。あとは文字通り弱肉強食が行われる。かなり寓意的で全体の中でもわかりやすい。富める者と思わしき男の真似をする貧しき者と思わしき男。この真似をするということからも、前者に知があることを説明している。ガン無視をキメるウェイターに呆れ、空腹を満たすために机や皿や着ている服まで食う彼らは、人々のどこまでも消費をやめないひもじさを表しているように思えた。靴を食うのは、チャップリンの「黄金狂時代」的な飢えの常套句として元来あるものだし、人はきっと本当に貧しくなれば靴を食うだろうな、ひいては人さえも食うだろうと思ってまた空恐ろしい気持ちになった。関係ないが、貧しき者の見た目がニック・ケイヴぽい。

「夕食」
 あらゆる調味料でベタベタになっていく食い物。かなり焦らされたそのテーブルの上が明らかになる時、結構なショックを受ける(タメが効いている)。「昼食」の捕食対象はあくまで相手であったが、「夕食」ともなれば自身の身体になってしまう。彼らの自己の一部を食すという所に共通しているのは、自分の一番磨かれた部分であると思われること。マラソン選手が、鍛え上げられた自らの足を食べ、女性は性的魅力を兼ね備えた胸を食べ、中年の男は自らの誇りである(?)一物を食べる。一物がテーブルに出ているのはキモかったな・・・全部キモいけれど殊更に。カメラに「しっしっ」とあっちへ行けというかのようにブツを隠す中年男だった・・・というオチ。他の人が一番磨かれているモノであるのに対し、この男のブツはやや小さいし当人が恥ずかしがって隠すという、お粗末な食事というオチ(中年男は自らを磨かないという皮肉とも言える)。しかも、テーブルの下にあるものがテーブルの上にあって、テーブルが隠す機能を果たしていないという所にマグリット的なシュールささえ感じて、酷いオチなのに含蓄があって笑ってしまう。
 しかし、動物が食用のためにいいように部位を改造されるように、人も自らの身体の商品価値に磨きをかけていたりする。素晴らしい身体、それは実は皿に載せられて消費される対象になってはいないだろうか。身体礼賛は、ファシズム的な思想が強まった時にも起きたそうで、人々を完璧という枠に押し込む時、そうなれなかった者たちが途端に捨てられていく/抹殺されていくのだった。五輪には国民の気休めのスペクタクル以上に、身体礼賛としての人間像の押し付けがましさがあるのだ(私はまだ五輪開催を根に持っているようだ)。話は逸れたが、自ら磨いた身体の一部を食べるのは、自惚れという行為への皮肉も感じた。かと言って磨かぬ者は恥じてるわけで、どちらも相応に悲劇的である。

 人間の食という行為は、食事だけでなくあらゆる行為に代用されて行われていると言えるかもしれない。いや、あらゆる行為を食事として置き換えることができるのかもしれない。資本主義は、そうなると人の性質上最も理にかなっている。正しいかと言われればそれは別だが。
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