JAmmyWAng

メッセージのJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

メッセージ(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

(原作を読んではいないのですが)恐らく原作がそうだからしょうがないんだろうと思われるのだけれど、すっげえハードコアな言語決定論がキーとなって物語を収束させていくんですが、コレってSFという前提を十分に考慮しても今日的なトンデモ感は正直あると思うんですよ。

その言語決定論とは「言語が思考を"決定する/形成する"」(エイミー・アダムスもしっかり"language determines..."と言っていた)というサピア=ウォーフ仮説のいわゆる「強いバージョン」に他ならず、これは色々な人から様々な反証が次々に提示される事で最早その誤謬性がガッツリと浮き彫りになっていて、実はとっくの昔に凋落したオワコン概念ではあるワケなんですよ。

コレがどんな風に間違っているかというと、「日本語には未来形の活用がないのだから、日本人には未来という概念がないのですねわかります」という一例がすぐさま飛んでくる有り様なのであります。

そんな感じなのでその決定論に代わりまして、「言語は思考に"影響を与えている"」(language influences...)という同仮説の「弱いバージョン」としての言語相対論が現在の主流になっているのであって、こっちに関してはその影響の度合いについてまあ色々考えられるよねって事で緩やかに合意が形成されているワケです。

その「言語が思考に与える影響の度合い」に関しましては、「そんな影響は全然無いに等しいレベルだよ相対論ごと死ね」と言っているスティーブン・ピンカーとか、「いやいやそんなに無視できるもんでもなさそうだよお前が死ね」と言うガイ・ドイッチャーとかがいて何やかんやワイワイやっているワケなんですが、何というかそうした現実に即して本作を捉えてみますと、サピア=ウォーフ仮説の「強いバージョン」をさらに増強する事によって思考どころか時間軸をも超越したマジでヤバい認識が可能になるという、同仮説の「クッソ強いバージョン」のゴリゴリ感がきょうびなかなかスゲーなとは思った次第。

ただコレって例えばアニメの『トップをねらえ!』が敢えてエーテル理論を採択していたのと同様に、作品としての面白さというものは別に存在するから特に何てことは無いのではありまして、前作の『ボーダーライン』もそうだったけれども、分からなさが分からなさそれ自体として呈示される事によって静かに構築されていく重苦しい雰囲気が堪らないなあと。

とにかく「分からなさ」に満ち溢れた前半において、それでも「文字・音声」というまさにシニフィアンそれ自体をぶつけ合うしかないという切実さの中に立ち現れてくる、根源的なコミュニケーションにおける不安と緊張と高揚感はハッキリ申し上げて最高でした。

つまりはヘプタポッドやベニチオ・デル・トロやジョシュ・ブローリンとのコミュニケートを実現してこそ真の「コミュ力」。

それ以外の通称コミュ力というものは、大なり小なりこのドゥニ・ヴィルヌーヴの映画においては全員等しく無力なのですから、いつまでもそれを求める企業側もそれに応える学生側もみんな一旦落ち着けば良いし、そんな時にこそ我々には「ばかうけ」があるじゃないかって僕は思うんだ。
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