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映画 聲の形のbluetokyoのレビュー・感想・評価

映画 聲の形(2016年製作の映画)
4.0
2024年8月16日 21:00~ 日本テレビ 
一見すると身体障害者の話かと思ってしまうし、実際、そうなのだが、実は、そうでもない。もっともっと奥が深く、社会、いや社会を形作っている人間関係とはなにか、ということを問いかけている。あるいは、通り一遍なことで済ませてはいけないことを、真摯に問いかけている。主人公は石田将也。どこにでもいるクズなヤツである。こんなクズが主人公なのか、と驚かされてしまうほどのクズである。クズを極めると、逆に悪目立ちして、光ってくる可能性もあるが、そんなことには絶対ならない、ありふれたクズである。

冒頭は、石田将也の小学生のころ。クラスに聴覚障害者の西宮硝子が転校してくるところから。石田将也を中心として、西宮硝子をいじめてしまう。ただ、興味深いのは、そのいじめを、主人公が石田将也ということもあるが、加害者側から描いているのである。もちろん、いじめは、その根幹に、攻撃欲や破壊欲があるわけだが、その発端は、たとえば、クラスの平穏を取り戻したい、こいつさえいなければ、クラスは秩序を回復できる、といった、誤った正義感や、もともとケアされていた弱い存在が看過されてしまうのでは、という恐れにあるのではないか、ということを示唆している。これはもう「差別」と同質なわけである。

石田将也は、かなりぼんやりした感じから、クラスからは、ケアされる存在だったのではないか、と思われる。とすれば、石田将也の場合、ケアされなくなるという恐怖、そして、クラスの安寧を保つためという誤った正義感で、クラスの負担になっている聴覚障害者の西宮硝子を排除すべしという一心でいじめ行為に走ってしまったのでは、と思える。

西宮硝子は転校し、いじめ事件は発覚する。首謀者である石田将也は、叱責を受け、クラスからは弾劾される。ここまでなら、どこの小中学校でも起こりうる、というか起こっているありふれたことである。たいていの場合、いじめ加害者や差別加害者は、表向きには反省し、だが、本心では、自然災害か事故にあってしまった、という認識しかないはずだ。なぜなら、その発端は、クラスのためとか仲間のためという他利からきていると思っているからだ。だが、なかには、違うケースがまれにある。この映画の主人公、石田将也の場合だ。深刻な人間不信に陥ってしまい、そこから抜け出せなくなるのだ。いままでの人間関係が根底から覆され、すべての価値観が消え去ってしまったからだ。(自殺することだけ考えるようになる)

ということで、この映画のテーマは、人間関係を失ってしまった人間が、いかにして、人間関係を再生していったのか、ということである。
石田将也は、ふと思い立ち、5年ぶりに、西宮硝子に会いに行く。映画はここから始まる。

一方、西宮硝子はどういう女性なのだろうか。彼女も、実は、人間関係を喪失しているのである。彼女の場合は、自分が障害者ということで、自分さえいなくなれば、まわりの負担はかなり減るだろうし、丸く収まる、という考えに基づく人間関係の喪失である。

新しく出会った、この二人は、だから、似ているのである。似ているが、決定的に違うのは、石田将也は健常者であり、西宮硝子が身体障害者である、ということだ。この違いは、ある意味で、絶望的な乗り越えられないほどの違いである。だが、その違いがあるからこそ、お互いを理解しようとしたり、お互いを支え合おうとしたり、助け合おうとしたりするわけだ。そこに新たな人間関係が生まれる。

最後に、ダメクズ人間の石田将也は、西宮硝子に自分を支えてくれと請い願う。ここで初めて、石田将也のよき人間関係が形作られていくわけかな。
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