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映画 聲の形のdm10foreverのレビュー・感想・評価

映画 聲の形(2016年製作の映画)
4.0
【再生の物語・・・いや原点を知るということ】

この映画も「君の名は」同様に『絵が苦手・・・』という理由で劇場鑑賞を見送ってしまったもったいない作品。
公開時から評価自体は結構高かったのは知ってたけどね。

「DVDで十分」と自分に言い聞かせてそのまま放置してたのですが、結果的にDVD鑑賞で正解でした。
きっと劇場で観ていたらしゃくりあげて泣いていたから(笑)

このお話の着地点を皆さんはどこに感じたんだろう?
『虐めはあかん。でも間違いに気が付いた人はやり直すことが出来るんだ』っていう希望のある帰結?
うん、映画の作り的にはそういう解釈も含めていたようにも思えた。

でも、現実ってそんなにきれいかな・・・。

僕が中学生の頃、クラスでイジメられている女の子がいた。確かにちょっと変わった子で性格も社交的ではなかったけど、でもあれはイジメだった。
そしてイジメていたのは僕も仲良くしていたグループの奴らだった。
カバンを蹴ったり、机に落書きしたり・・・。
僕は・・・何もせずにただ見ていた。同調もしない変わりに助け船も出さずに・・・。
だから僕も同罪だった。

卒業して何年かたって、近所のヨーカ堂に買い物に行ったとき、偶然彼女を見かけた。食品コーナーでレジ打ちのバイトをしていた。
活き活きと仕事をしている彼女を見た瞬間、自分のしたこと(やらなかったこと)がフラッシュバックして泣きそうになった。
でも、話しかけることは最後まで出来なかった。
気が付いたんです。
決して勝敗があるような話ではないけど、人間として僕は彼女に勝てないんだと。
今更何を言っても、例え彼女が許してくれようがその場で怒鳴りつけてこようが、僕は一生この子には勝てないんだと思った。そして足がすくんだ。
今となっては彼女がどこで何をしているのかも知らない。

あの時、彼女に謝っていたら・・・。

でも、それは自分のエゴだと気が付いた。
謝って、許しを貰ったとして、それが何か過去を変えてくれるのだろうか?
ただ自分を楽にしたいだけなのではないか?
これについて答えはないけど、ただ一つ、自分は弱い人間だと認識した。

この話に出てくる石田君は、根っからのいじめっ子というわけではなかった。
子供の頃によくある、ちょっかいがどんどんエスカレートしていって、気が付いた時には止め時を見失ってしまった状態。
最初はクラスのみんなも笑ってたけど、徐々に笑えなくなってしまうという。
こういう事って結構あるんじゃないかな・・。
決して本人にイジメてやろうという気はない。
だけど、結果としてそれは相手にとって「いじめ」以外何物でもなかったという事実。
クラスの中で客観的に自分のしてきたことをみんなから指摘されて初めて自分のしてきたことの重大さに気が付く。
当然、お話だってことを理解したうえで、石田君はとても純粋な少年だと思う。西宮さんに近づいたのも純粋にキチンと話をして謝りたかったから。

人間なんてそんなに簡単に変われるものではない。
たかだか5年経ったくらいで、全てをなかったことにできるほどできた人間なんてそんなにいない。
出来るとしたら、もう一度「あの時のこと」を自分の中で咀嚼して、今の自分に何ができるのかを考えるという事。

劇中でもみんなが口々に「私は結局何も変わってなかった」という。

それは決して悪いことではない。むしろそういうものなんだと思う。
だから、人間は「あの時」のことを真剣に悩み、後悔し、やり直そうとする。
変わらないから変わろうとする。

この話は石田君の周りの人たちの再生の物語ではなく、それぞれの自分の原点を知るところからもう一度始まる物語なんだと思った。
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