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スイス・アーミー・マンのDのレビュー・感想・評価

スイス・アーミー・マン(2016年製作の映画)
4.4
評価が低い理由はわかる
あまりにも描き方が形而上学的すぎるから、問いそのものが読み手に伝わりにくい。ひょっとしたら監督自身すら気付かずにこの映画の問いの本質は描かれている気すらする。心の哲学や自己の哲学、意識の哲学の本を読んでいる気持ちに近かったし、永井均が好きな人は間違いなく好きだろうなと思った。
僕は永井均が好きなのでこの作品も大好き。
おそらくこの映画を評価していない人が見過ごしているであろうポイントをここで書くとすべてネタバレになってしまうけれど、1つだけ言うと、<私>の哲学によって暴き出される<私>の非実在性と、"私"の実在性、およびその2つの間に存在する乖離を受け入れることによって知ってしまう虚無感や絶望こそが"メニー"という(非)実在とのハンクの邂逅の形而上性とそのありえなさを表している。フィクションだからこそ"メニー"と"私"の邂逅は可能になり、"私"はそれによって救われるのだが、それは<私>ではなく"私"でしかない。にもかかわらず、<私>の胸が熱くなった「感じ」がするという、そういう奇跡をこの映画は与えてくれた。
メニーが去っていくシーンの本質は、ハンクが1人で歩む決意をしたからではない。これが他の人のレビューを読んでいて一番感じた違和感というか、私の譲れないところである。メニーはメニーだから去ったのである。決意をしたからではない。ハンクが"私"を<私>ではなく"私"として認識しえたからである。つまり、メニーはメニーに戻ったのである。なぜならば、言語によって「語られるもの」になったのだから。ハンクという主体がメニーをメニーに返してあげたからである。メニーは遍在するからメニーなのである。このメニーの偏在性は、我々が我々だから感じられるものであり、むしろメニーをメニーとしてしか捉えられないところに<私>の特殊性は依拠している。それを感じさせる映画だった。

私にとってこの映画はそれくらい美しく、奇跡的なものだった。
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