あいうえお

オリ・マキの人生で最も幸せな日のあいうえおのレビュー・感想・評価

4.5
結論から言うと、この作品は「ボクサーの主人公とその恋人がお互いに困難に直面し、二人でそれを乗り越える」といった定石とは正反対の構成になっている。

展開が進むにつれてライヤはボクシングの世界から切り離され、オリは引き寄せられるようにその後を追っていく。スポンサーやお高くとまった人々との面会で不安を感じさせる一方で、オリとライヤのデートの場面では観客を安定した感情へ導く。二人の間には困難は存在せず、至福の表情が続く。その上、オリは試合前にプロポーズし、ためらい一つなく快諾してもらう。
このような状況の中、クライマックスの試合場面に入る。ライヤは声を出して応援するわけでもなく、リングから遠く離れた場所でただ静かに表情を強ばらせながら傍観している。試合の勝ち負け云々よりも、むしろ愛する人がボコボコにされたことの悲しみが表情に現れる。
このような二つの対立構造を築く要素を交互に配置することによって、新たな意味を加え続けつつストーリーを展開することが可能となり、それが観客を引きつける一つの要因となっている。

前提としては、登場人物の階級が自身の行動を制限していることも重要な点で、この作品では社会的格差の存在を認めながらも、それとは別次元の幸福を追求するオリの決断(優柔不断であっても、決断は決断として扱ってもらいたい)に温かな視線が向けられている。つまり、恋愛は彼にとっては逃避行動ではなく、自身の社会的位置を確認した上での真っ当な行動として扱われる。事実、うつつを抜かすオリの視線もカメラは従順に追っているし、何といってもあの至福の表情が作中のハイライトであるところからも明らかになっている。階級を読み間違えたエリスにおいては、作中後半の言動が何とも痛ましく描かれている。

このノンフィクションを、刺激的なアイデアを持つ作品に変えたという事実、終始一貫した演出と充分に魅力のあるキャラクター造形が、この作品の最大の強みであると思う。「ある視点」部門に相応しい良作。やっぱり何だかんだ言って安心のカンヌクオリティ。

ちなみに、ラストシーンのすれ違った老夫婦はオリとライヤ本人が演じているらしい。クレジットに気づいたのは自分だけかもしれない。