YAJ

PARKS パークスのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

PARKS パークス(2016年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

【学園祭?!】

 吉祥寺引っ越し前の予習に観てみた。
 2014年惜しまれて閉館したバウスシアターのオーナー発願、井の頭公園100周年に合わせて製作された作品。故に当然、地元吉祥寺愛、井の頭公園愛に溢れた作品。

 鑑賞したのも吉祥寺駅前の映画館オデオンで。春の上映期間が終わったあと秋口に凱旋上映と銘打って1週間だけかかったタイミングで観に行った。観客は地元の方が多かったのだろう。しかも古くからこの街を良く知る人たちが…。
 運悪く(?)すぐ後ろの席にそんな老婦人二人組が座ったものだから、序盤は「ほら、あそこよ!」「あー、ここ知ってるー!」的なおしゃべりがひっきりなしに聞こえてくる。そろそろ限界、次、騒いだら振り向いて注意しようと思ったあたりで、新しい町のシーンが減って来ておしゃべりも収束していった(ほっ。。。。)。

 でも、思い出すなあ、高校2年の文化祭(畝高祭)。とあるクラスの出し物が自主制作映画だった。1年生の時からの悪友だった男が、その映画の主役(?)だ。当時、ラグビー部の主将・副主将を2人で務め、部活以外でも休み毎にキャンプだスキーだと一緒に遊んだ仲。当然、冷やかしに鑑賞しにいったが、ロケ先も、校内はもちろん、ロードワークに出かけるご近所が舞台。見知った場所が出るたびに、今回の後ろの席のおばさん達のように「あぁ、ここ耳成山やん!」とか、主役の演技に「ちゃうやろ、それ!」とツッコミ入れ放題。鑑賞したあと、「も一回観に来て、さっきみたいにチャチャいれて盛り上げてくれ!」と言われたりしたもんだ(笑)

 話がそれたが、この『PARKS』も、そんな学園祭でかかっていそうな、自主制作一歩手前(一歩先?)のようなビミョーな作品だった。設定は面白いし、役者もそれなりに魅力的だった。井の頭公園を中心に吉祥寺という街も魅力的に描かれていたが。。。

 井の頭公園を借景としたアパートに住む大学生ジュンの元に女子高生(?)ハルがやってくる。そのアパートに50年前に暮らしていたという佐知子という女性を探しているという。亡き父晋平の元カノのだそうだ。佐知子を探す過程でその孫トキオと出会い、トキオが祖母の遺品から曲の断片が録音されたテープを見つけ、その未完成だった曲を蘇らせようと3人で協力し、仲間を募り、バンドを組んで地元のフェス(吉フェス)に出演するというストーリーだ。

 先にこの映画製作秘話を見聞きして知っていたので、井の頭公園100周年にかける思い、30年以上吉祥寺文化を育んできたバウスシアターの思い、祖母から孫へ音楽を通じて伝えられる思い、いろんなものがギュっと凝縮してそうで、歴史を感じさせる設定も相まってそこそこ楽しみに鑑賞した。

 が、まぁ、結果は・・・・  着想、設定、役者、舞台装置etc. etc.いろいろ良いものが揃っていながら、惜しいなぁ、ああすれば、こうすればと、こちらの思いばかりが膨れ上がってしまい、非常に消化不良な後半と結末。

 吉祥寺の魅力をストレートに伝え、井の頭公園の100周年を素直に祝うのなら、監督(脚本・編集も兼ねてる)が、変な作家性を出して作品をこねくり回さなくても良かったのではないかな、と思うところ。
 ま、吉祥寺の予習のため、わが家としては見ておいて良かったとは思うけど、あまりおススメはしません。



(ネタバレ含む)



 鑑賞後、曲の完成をどう持って行くべきだったか、どこで映画を終わらせるべきだったかが我が家の反省会の中心議題だったし、ふたりとも意見というか思いはほぼ一緒だった。
 曲が出来て、吉フェスにもめでたく出演が決まる。曲のアレンジは現代風の味付けを施しトキオのラップも入ってPOPな出来栄え。曲のアレンジも二転三転しいろんなVer.が出来上がっていく過程も面白く、何度も繰り返し聞かされ曲への愛着も自然と高まっていく。曲のVer.の多彩さがこの街の多様性、豊かなサブカル文化を象徴しているようで実にいい感じなのだ。 ところが出演直前にメンバーが食中毒に!舞台に上がるのはジュンのギター1本と、腹痛を押して登壇したトキオのみ。さぁ、どうなる!?

 50年前、ハルの父晋平が作った素朴な曲に今風のアレンジを加えたものだから、実はハルは違和感を持っていた。フェス直前にその思いはジュンには伝えてある。そこに降って湧いたこのアクシデント。観る側として期待するのは、元の曲に寄り添った素朴なアレンジ、ギターのアルペジオだけで曲の持つ温かみとジュンのボーカルの魅力で観客を魅了するという展開だ。
 だけど、呆然と立ちすくすジュンは打ち込みのビートに併せギターをかき鳴らすだけ、それを見てテンパったトキオが狂ったようにラップをがなり立て、やがて腹痛のためステージ上で昏倒。そこでジ・エンド…。 なんだ、そりゃ!?

 音楽の才能を少しだけ信じて、最初は逡巡してたけど、50年前の曲を蘇らせるという素敵なストーリーに後押しされて舞台に上がったジュン、それを最悪の形で挫折を味わせる展開に何の意味が?! 世の中、そう甘くないという見せしめ? 青春の蹉跌、ほろ苦さもこの街、吉祥寺にはたくさん染み付いているということの再認識? いったい何を言いたかったのだろう???

 100周年を祝う作品に、この味付けは必要だったのかなぁ(ここが、監督が妙な作家性を発揮してしまったところのひとつかなと、残念に思う点)。

 そして、その後。どん底に気落ちしたジュンとハルの諍いの場面と別れ。アパートを出ていくハル。でも、それじゃダメだと思い直したか、井の頭公園の中を追いかけるジュン。そして始まるミュージカル仕立ての演出。吉フェスで演奏できなかった「PARK MUSIC」を公園内で演奏する楽しげなシーン。これは幻想なのかもしれないけど、いろんな失敗も乗り越えて、最後はこの公園で、この街で、またみんなで楽しくやっていきましょうというイメージなのだろう。これまでの全出演者(50年前の若かりし晋平、佐和子たちも)総出で踊り、歌い、演奏し、まぁベタだけど大団円だなあ~、・・・と、観ていたら、まだ終わらない!!! なんじゃ、こりゃ?!

 もう最後の方は意味なさそうな、というか、どういう意図で差し挟まれたものなのか、いろいろ振りまいた伏線の回収に果たしてなってるのかなっていないのか、それすらも曖昧模糊な、冒頭をなぞるようなシーンをさらに入れるなど、ダラダラダラダラ・・・・。

 うーん、モヤモヤが残りまくり。実に後味悪し!!  つーか、いい着想、設定、役者、舞台装置が、もったいない、MOTTAINAI!!

 未回収のままで終わったけど、ハルの正体も謎めていて面白いんだな。まず年齢が謎。恋人同士だったハルの父晋平と佐和子。その佐和子の孫がトキオだ。トキオと佐和子の世代格差は合っているんだけど、ハルが晋平の息子ってのは、晋平60前後の子とする以外にツジツマが合わないのだ。そして、ハルは誰の幻想、空想の中なのか、50年前の晋平、佐和子たちの曲作りの場面にも立ち会ったり、若き日の父晋平と語らう場面などにも登場する。

 「橋を渡る」というChapterが後半に出てくる。井の頭公園の池を渡る七井橋、か弁天橋のことだ。夕間暮れにこの橋を渡ると、きっと時空を超えられるということなのだろう。特に説明はないけど、そんなファンタジーな、千と千尋を彷彿させるアニメ的な設定もサブカル天国吉祥寺が舞台の作品内ではありだろう。それが出来るのはハルのみだ。あぁ、彼女は時空を超えた存在なのだなあと思わせぶりを振りまく後半。でも、けっきょくハルはどこから来てどこへ消えていったか、その正体は明かされない。

 お蔭で、あーだこーだと鑑賞後の反省会は盛り上がるのだが、続きは、この先の未来は、映画を観た人、あるいはこれからこの街、吉祥寺に関わっていくみなさんで、次の100年を創りあげていってくださいという意図だったのか…。
 一応、好意的に、そう解釈しておくことにします。

 「PARK MUSIC」の歌詞、『春から順に時を経て』は、主人公3人の名前”「ハル」から「ジュン」に「トキオ」へて”と織り込んで、時が過去から未来へつながっていくこと、あるいは人の想いや街への愛情は人を介して伝播していくことを示唆しているのだろうしね。
 あー、いいネタはたくさん盛り込まれているのに!! 

 最後にも一回、 惜しいっ!!
YAJ

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