YAJ

存在のない子供たちのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

存在のない子供たち(2018年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

【私はレバノンにいる】

 ドキュメンタリーかと思うほど臨場感に溢れた問題作。
 レバノンはベイルートのスラムを舞台に、世の不条理にもがき抗い、生き抜こうとする12歳の少年の目線で、中東の貧困、難民問題を活写したヒューマンドラマ。
 原題『Capharnaum』(カペナウム)は、新約聖書のエピソードから“混沌”や“修羅場”の意味合いで使われることになるナフーム村のアラビア語だそうだ。聖書に詳しくない日本人には原題のままでは意味不明だったろう。『存在のない子供たち』とはなかなか上手くつけたものだ。

“存在”とは何であろうか?
 劇中、少年は国外逃亡を幇助すると嘯くブローカーにこう言われる。

「出生証明書でも、写真の載った新聞記事でもなんでもいい、身分を証明できる書類を持ってこい」

 もちろん少年には出生証明書はおろか、戸籍もなにもない。しかし、“なんでもいい”紙切れ1枚が、この少年の存在の証なのだろうか? 親の庇護もなく、生活の糧を自ら稼ぎ、知恵を絞り力の限り生き伸びようとする姿、その全てが彼の存在そのものだ。
 圧倒的な存在感で、主人公の12歳の少年を演じたゼイン(本名も役名と同じZAIN AL RAFEEA)。彼以外のキャストも、演じる役柄と同じ境遇の人をオーディションで選んだという。ノンフィクションか?と見まがうような迫真はキャスティング手法からも生み出されている。というより、そうしたキャスティングが可能なベイルートの世情たるや・・・。

 12歳の、教育どころか親からの躾すら受けていない少年にとって、スラムの暮しが全てだ。そこには諦観しかないかのように見える。虚無に濁る少年の瞳には、外の世界の広さどころかその存在すら映らない。親や社会から何も学ばなければ、世の理(ことわり)すら、いや、それ以前の、なにが善でなにが悪かの違いすら判断がつかないに違いない。

 絶望的な境遇で、ゼインが守ろうとしたのが、可愛がっていた妹や、世話をしてくれた女性の赤ん坊という、自分よりか弱く小さな命だった。それらを必死に守ろうとする気持ちは、教えられ、躾けられて身につくものではないということか。ゼインは、人として当たり前の思いやりと優しさを有していた。どんな境遇に置かれてもだ。
 その彼だからこそ、自らの親を告訴する声が、ズシンと心に響いてくる。

 そんな子どもが「私(たち)はレバノンにいる」ということを訴えた超重量級の作品。いや、レバノンだけではない。世界の至るところにいる、と我々は知るべきだろう。



(ネタバレ、含む)



 2019年最後の鑑賞作品になった。ふう…なかなか重い作品だった。
 レビューは年明けにゆっくりと、と思っていたら、大晦日に「私はレバノンにいる」という衝撃(笑劇?)のニュースが流れてきたので、取り急ぎ書いておく(笑)

 非常によくできた作品だった。テーマは、上記の通り、愛情のない…というより、責任を負わない『大人たちに聞いてほしい』と、主人公ゼインの言葉の通り『世話できないなら産むな』という訴えだ。
 「愛せないなら」とは敢えて言わない。愛なんて要らないということではないが、“世話をする”という責務が果たせない者たちには、それ相応の責任が生じるぞ、と強く思わせる作品になっている。

 先日観賞した『2人のローマ教皇』でも、ラストは、難民の存在に対し「誰も責任を取らないなら、それは世界中、みんなの責任です」という説話だった。それとダブるような本作のメッセージだ。

 自分もいろんな「責任」が生じるようになってきた。立場上も年齢的にも。日本という恵まれた国に生まれただけでも、なんらかの責任が生じているのではないかと思ったほうがいいのかもしれない。
 その責任を果たした後に、ラストシーンのようなゼインの笑顔に出会えるなら、それだけで報いは十分ではないだろうか。
 この気持ちは、教育を受けたからでも、誰かに躾けられたからでもない、と思いたい。

 皆様、良い年を。そして世界に平和が訪れますように。
YAJ

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