ぶん

ガザの美容室のぶんのレビュー・感想・評価

ガザの美容室(2015年製作の映画)
5.0
特別な何かがあるわけではなく、ただそこにある日常を凝縮したようなものなのかなと思った。女性としての性、おしゃれをする喜び、若く美しくありたいという葛藤、それらとの宗教的なジレンマ、安定しない国家体制、解決せずに山積する問題、誰かが助けてくれるわけではないという現実、女性が介入できないという苦悩、翻弄される人生。そういうものが詰め込まれていた。
美容室という女性が本来心をリラックスさせて美しくなるためのポジティブな場所で様々なネガティブがおこるという対比。生まれるものと死ぬものの対比。静と動の対比。老いと若きの対比。宗教と背徳の対比。局所にそういう対比がたくさん感じられた。
結局この映画は諦めへの怒りに満ちたものだと思う。自分たちでは打破できないどうにもならない日常。本来は守られるための政府に押し付けられる理不尽。そしてそれらの根本的問題が全くの解決の道に進んでいない現状。そういうものへの諦めと怒りなのだと思う。たとえ私がパレスチナに対して特別に強い気持ちを持っても、状況は全く変わらない。この映画が世界中で見られても、キットほとんど解決されないほど難しい問題だ。そういう諦めと怒りもあるのだと思う。
それぞれが自分のすきなことを言って、それぞれが他人への配慮に欠け、それぞれが怒りに任せて怒号を飛ばし、でも一方で助け合い、寄り添っていた。それは全てきっと誰しもが行ったことがあるものだ。自分に余裕がなければ、他人にはきつくなる。けれどその他人が困っていれば助け合い、そこに寄り添う。そう言った意味でも普通の日常なんだと感じた。
フィクションなら愛が勝つ。救いのない映画よりも救いのある映画が多い気がする。それでもこの映画には救いがない。それが現実だから。愛が勝てない場所。それがガザなんだと思う。
はじめ、私は映画を見ていてとても苛立ちを感じた。自分のことしか考えずに発言するワガママな女たち。プライベートの問題を持ち込むことでほとんど進まない施術。状況説明も展開もないダラダラとした会話劇。でもそれが日常なんだと気づいた時には涙が流れた。ガザの女性にとって、このどうしようもない閉塞感と絶望感は当然のものなのだ。苛立ちは彼女たちの感情でもあるのだ。
特に印象的だったのは、飴を舐める女性が「もし自分が大統領だったら」という話をするシーンだ。そこにいる全ての人について知る情報で担当大臣を当てはめる彼女に、言葉では表現できない悲しみを感じた。女性は決して政治的な活動や介入を行えない。私にとっての当然は彼女たちにとって空想でしないのだ。
こういう映画は悲劇的に作られることで感情移入を促すものが多い。しかしこの映画はそうではない。それが私にはいちばん悲しいと感じた。日常が悲劇よりも苦しい。それがいちばん苦しい。救いはない。
それでも私は知っていく。だって知ることしかできないから。もしも世界に自分とその身内のことしか考えない利己的な人しかいないとしても、私はそうはなりたくない。何もできない。それを自覚して生きたい。
世界に少しでも幸せが増えますように。私はこれからも毎日そう願いながら生きる。
ぶん

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