シュウ

マグダラのマリアのシュウのレビュー・感想・評価

マグダラのマリア(2018年製作の映画)
4.7
まず率直に、あまりのレビューの少なさと評価の低さに驚くほど、個人的には素晴らしい作品だった

テーマはもちろんだが主演の二人に惹かれて鑑賞

聖書に関して造詣が深いわけではないため解釈などに触れることはせず
あくまで物語の感想として

当時は圧政により人々が抑圧されていた時代
イエスは抑圧されていた人々に尊厳を与え彼らの魂の解放を目指していた
しかしイエスの思惑とは違い人々はイエスを崇拝し
「イエスに従え」に文脈がすり替わってしまう

それは魂の解放ではなく魂をイエスに依存させる行為
依存は支配を生み
支配は抑圧を生み
再び魂は抑圧されるという連鎖を生み出す
イエスはエルサレムの神殿で自己矛盾に陥っていることに気づくが
彼を信仰している(依存している)人々はもはや彼が自分たちの理想から外れることを許さない
人々は魂を抑圧してイエスを支配する
支配するものとされるものの心理は一緒であり表裏一体であることを痛感させられる

その構造から抜けるための模範となるのがマリアのあり方
群衆は上述通りイエスに従った
しかしマリアは己に向き合った結果としてイエスの言葉と繋がった
彼女はイエスに従ったのではなく
自分の魂に従い結果としてイエスと繋がっていた

キリスト教に限らず各種宗教の教えは
人に尊厳を与え一人一人が自分の魂を尊重して生きる素晴らしさを本来はベースにしている

しかし残念ながら宗教というシステムは
今の世の中では人の魂を依存させる装置として悪用されてしまい
戦争の種になってしまったり軍事利用されていることも多い

宗教に良し悪しはなく要は向き合う人のメンタリティの問題
我々に必要なのは信仰(無条件に受け入れること)ではなく
選択(自由意志の元に生き方を選ぶ)する力かもしれない
そして自由意志に歯止めが効かなくなっている現代においては
より正しい選択ができる力を磨かなければならない
依存と支配の力学を超え人々が自分の魂に従って生きる社会を作るために

2016年にマグダラのマリアの存在が使徒と対等の立場で正式に認められたらしい
あえてステレオタイプ的なまとめをしてしまうが
男性の権威主義や自尊心が作り出す競争意欲が社会発展の原動力となってきたことは間違いない
しかしそれがもたらす負の要素があまりにも大きくなりすぎ
その力学で社会を発展させることが限界に来ているように思う
マグダラのマリアの復活はそういった社会要請と呼応しているように思う

マリアのように権威主義や自尊心を超えて
自分の中の感性に素直に向き合い
そこから湧き上がるものを信じて選択できる強さがこれからの時代に生きる人間に必要になりそうだ
シュウ

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