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「もののけ姫」はこうして生まれた。の0000のレビュー・感想・評価

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技術解説などに割いてる時間も多くて映像自体は貴重だったり勉強になったりするものの、作品としての構成の態度がどこまでもミーハーなので、見てるほうもなんとなくすごいなーすごいなーと言ってるだけの庶民で終わってしまう。撮ってるときは素人の好奇心でもかまわないが、編集ではうんと背伸びしてでも被写体と同じ視点まで登ろうとし、その位置から撮影素材を見ようとしないといけない。
(後に作られ続けるNHKのドキュメンタリーになると「プロフェッショナル」などという曖昧で漠然とした精神性というか意味のないと言っていいような概念をテーマに掲げてもうミーハーがどうとか以前の問題になってしまうが……)



かなりどうかと思うような部分も多く例えば、「デイダラボッチは原水爆のメタファー」みたいな読み、というか「Aという表現イメージはBという意味です」的な解釈/解読を促す、思考誘導するような解説映像を公式のドキュメンタリーに入れてしまうのはどうなのか……。「作者がかつて原水爆の映像に衝撃を受けそれを表現描写のモチーフにしている」ことと「このデイダラボッチという存在は原水爆という意味に置き換えられる記号/暗号みたいなもので、原水爆の恐ろしさを主張するための比喩である」というのは全然違う。映像の中で宮崎駿はデイダラボッチを描きながら原水爆の映像について語り、モチーフにあることを示唆するが、「デイダラボッチは原水爆を意味してます」とは決して言わない。だがドキュメンタリーでは原水爆の記録映像を引用し創作表現の解釈を単純な寓意のレベルにまで下げてしまう。(さらに創作とはどういうことか何もわかってない岡田斗司夫のようなアホがYouTubeでヘラヘラとトリビアのように「ドキュメンタリーで言ってましたから」と語り、もっとたくさんのアホにその“解釈”は消費され、表現という魔法はただの「こういう意味です」というだけの単純な暗号ごっこになり下がる。ジブリ作品に限らず今の多くの人にとって作品鑑賞とは“意味付け”でしかなく、例えば何か映画を見て「これは人生という呪いについての話だと思った」などと言ってしまえればそれが「わかった」ということ、攻略した、みたいなこととして消費され、イイネという共感でそのカスのような意味付けは拡散され共有され、さらに薄っぺらく何となくの「わかった気」でしかないものとして広まり、あとは自分の鑑賞歴という“個性”の飾りの一つになるくらいのものだ。ひどいありさまだと思う。)
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