芸術。
本当って何?本当って何ですか??
多くの場合、事実は大して意味を持たない。人は信じたいものを信じるから。
数年前に似たような事を考えていた。
映像にしてみたけれど至らない点ばかり気になった。テーマとしては普遍性があったと思うんだけどなあ。
ある人が生きていたとして、でも長い間会っていなければ死んだと同じ事なんじゃないか?という疑問。
そいつ自身は生きていて、勿論自分の死をまるで疑っていない。でも10年そいつに会っていない、音信不通な知り合いならどうだ?どう思う?当然生存を疑う。
逆に生きていても忘れられていたら?久しぶりに会っても知らないと言われたら?
死んだも同じだろう。
自然とそっち側の視点に立つことになった。長い間連絡をとっていない人は多いし、連絡というものは8割方こちらからしないと来ない。それほどに俺は忘れられていた。忘れちゃいけない人ではなかった。
爺ちゃんは言った。
「美空ひばりを知っているか?この人はまだ死んでないんだぞ」
Dr.ヒルルクは言った。
「人がいつ死ぬかわかるか?人に忘れられた時だ」
人の生死を扱うわけで、当然責任が伴う。
でもだからといって変に萎縮する必要はなくて、普段思っていることを形にすれば良い。重いテーマだからこそ自分に嘘をつくことは出来なくなる。それこそが失礼になるから。
でも考えてみれば生死の問題は普遍的なテーマで、食事や排泄と同等に語られるべき人の日常の一部だ。
食べ物は腐ってなけりゃいい、とかいやいや美味しくなきゃダメだとか、オーガニックじゃないと、、みたいな、そのレベルの話。
つまり日常は人の数だけある。
それを知った時、退屈な日々は終わるのかもしれない。
ごくごく限られたコミュニティの中で展開するストーリーは退屈さを連想させるが、そこに飛び交う視線にはドラマがある。
人間は無意識のうちに他人の目を見ている。映画はそれを意識的に作り出し物語にする。何も無い空気中に視線が見えれば、そいつはたぶん映画監督になれる。病気だけど。
人の目を見るのが苦手なので映画の中の目線ぐらいはちゃんと見ようと真面目にやってたら危うく美希に惚れそうになった。
凝視は強い。凝視出来る人は羨ましい。
好きな人を凝視しよう。