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われら生きるものの作品紹介

われら生きるもののあらすじ

「ノア・ビビ」(Noi vivi)と「アディオ・キラ」(Addio, Kira)の2部作。

われら生きるものの監督

ゴッフレッド・アレッサンドリーニ

原題
Noi vivi/Addio Kira!
製作年
1942年
製作国
イタリア
上映時間
208分

『われら生きるもの』に投稿された感想・評価

昔、古い映画をピックアップしてAmazonのほしいものリストに入れていて、
つい衝動買いしてしまった映画。
内容はソビエト社会主義共和国連邦育ちのアインランドという女性作家の
自伝的小説を映画化したもの。

反共産主義の女キラ(アリダヴァリ)と、
同じく反共産主義の男レオと、
共産党員で、GPU(KGBの前身)の男との
三角関係を描いた物語。

人間は国家にしばられず、自由であるべきという主張の映画。

舞台はソビエトの話なのだが、1942年という時代にソビエトで
反共産主義な映画を作れるわけもなく、
イタリア人が小説をもとにイタリアで作った作品。
(のちにファシズム政権下でのイタリアでも上映中止になったとのこと)

まあ、古い映画だが映像からは特別、
目をひくような風景や文化的価値は
見当たらなかった。

よく知らないが、よくあるつまらない古典という類いだろう。
少茂(すこしも)おもしろくなく、
3時間は長かった。

しかし、こんな古い時代からでもドラマの撮りかたってのは確立されてたんだね。

何か勉強になったのかはわからないが、
萬違算というか、金と時間を無駄にしたっていう感はあるね。

ヒロインのキラが臈(ろう)長けた女性であることだけが良かった。

本作品は1986年に復元版として、
オリジナルを部分的に修正、編集したもの。

画面サイズは4:3の昔のブラウン管テレビサイズ。
イタリア・ネオレアリズモ前夜の幻の傑作。全体主義国家ソ連で展開するハードな恋愛ドラマ。原作はイーロン・マスクやスティーブ・ジョブズが心酔した自由原理主義作家アイン・ランドの自伝的小説(1936:同題)。アリダ・ヴァリ(当時20歳)の最初期の主演作品。監督は「母なる大地」(1931)の脚本を手掛けたゴッフレッド・アレッサンドリーニ。音楽はロッセリーニ監督の弟レンツォ・ロッセリーニ。

1920年代初頭ロシア。革命軍が樹立したソヴィエト政府は全体主義体制を強めていた。革命後に財産を没収されたブルジョワ家の大学生キラ(アリダ・ヴァリ)は元貴族の息子レオ(ロッサノ・ブラッツィ)と街角で出会い、お互いの自由な精神に強く惹かれ合う。一方、労働者の家に生まれ革命の大義を信じるGPU(ソ連国家政治保安部)のアンドレイ(フォスコ・ジャケッティ)もキラに思いを寄せていた。息の詰まるような社会主義国家の下、3人の人生の葛藤と愛憎が繰り広げられる。。。

演出・映像ともに骨太で凄く見応えがあった。発足直後のソ連のが描かれているのも興味深い。序盤は逆境下の恋愛ドラマのようだが、話が進むにつれてイデオロギー色が絡み始め、最後はかなり意外な結末だった。全体主義下で利己主義を貫くヒロインが映画を引っ張っていく。しかし真の主人公は国家主義者だったアンドレイだったのではないか。「個人は国家のために生きるべきだ」と説く国家方針に対し、「私たちの人生は、国家よりも神聖なのではないか?」と命を懸けて問いかける。個人と国家の対立が本作のテーマと言える。

自分勝手の嫌な女に写りかねないヒロインをアリダ・ヴァリが好演。その真っ直ぐな眼差しがキャラクターの説得力を高めていた。「これは一億五千万人との戦い。私は負けたの」との言葉が彼女を象徴している。まるでセカイ系を遥かに先取りしたようなセリフだが、本作の舞台は異世界などではなくリアリズム剥き出しのファシズム国家。全国民が反対しても自身の愛し方を貫くキラは頑固なロマンチストであり、彼女の恋愛は全体主義vs個人自由主義のイデオロギー闘争だった。

原作と同年の小説「風と共に去りぬ」(1936)のスカーレットを想起する。「若草物語」(1860)のジョーが育んだ女性の自我が、革命ロシアの知性主義とアメリカ南部の反知性主義とに分岐したのが両者とも思えてくる。

本作を起源にアイン・ランドは自由至上主義を極めていき、その思想は代表作「肩をすくめるアトラス」(1957)で結実する。同書はアメリカのインテリにとって常識的な存在で、自由資本主義者=保守層の座右の書となっているのだそう。日本であまり知られていないのは、自由を勝ち取った国ではないからだと自己解釈した。自分自身にも“自由は闘わなければ得られない”という意識が少ないと思う。“平和”に対してもまた然りかもしれない。闘うことの是非は別として、本作を観て自分の甘えた腑抜けさに克を入れられる思いがした。

戦争以前のイタリア映画は1920年前後の歴史スペクタクルを観ただけだったので、ネオレアリズモの源流とされる本作を観て同時代の作品に俄然興味が沸いた。他にも観てみたい。

本作は戦時中イタリアで「反ソ連・反共産主義映画」として検閲を通ったが、公開後すぐに「反全体主義映画」としてムッソリーニのファシスト党から没収処分され幻の映画となっていた。その後フィルムが発見され再公開されたのは44年後の1986年だった。

現在流通しているのは再公開の際に全長4時間を3時間に短縮編集したもの。全長版のラストはヒロインが「国境の雪の中に消えていく」シーンとのこと。これもいつか観てみたい。

※ロシア出身の原作者アリダ・ヴァリは、ロシア革命から全体主義国家への自国の変貌を目の当たりにし1926年にアメリカに亡命。レニングラード国立映画学校に学んだ経験からセシル・B・デミル監督の下で脚本家として働き、1936年に本原作で小説家デビュー。後に小説「水源」(1943)がベストセラーとなり「摩天楼」(1943:キング・ヴィダー監督)として映画化された。