レインウォッチャー

羅生門のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
4.0
読書と映画が秋を深める④

リドリー・スコットの『最後の決闘裁判』を観るとき、やはり横着せずに読み&観直しておくべきだったと今さら反省している。言わずと知れたクラシックofクラシックで、『最後の〜』の下敷きにもなった今作だけれど、あらためて観ると両作がそれぞれ目指したものの違いがよくわかる。

原作は芥川龍之介の掌編『羅生門』…と見せかけてほぼ『藪の中』。一説によると、このトラップによって撃沈した「羅生門エアプ勢」の死骸が集まって生まれたのがミャクミャクさまであると言われている。(とか言われてないとか。)

事実、小説『羅生門』成分の分量は味の素程度で、このタイトルと内容の捻れにはいまいち納得できる説が見つけられなかったのだけれど、今ではこの『藪の中』から足された部分が何より重要であるからに他なるまい、と考えている。

とある一件の殺人の様子を、当事者含めた複数人の証言を通して描く。結果は各視点ごとに全く違う印象になり、人のもつ欺瞞と業が炙り出される。
そんな原作『藪の中』と映画の何よりの違いは語部となる三人の男=木樵・僧侶・下人の存在だろう。彼らのうち木樵と僧侶は原作にも登場するが、あくまで目撃者としてのガイド役(=当事者との対比で、とりあえずこれは事実らしいという情報を提示する役目)の印象だ。
一方、映画では彼らは主体的な語部となり、ああだこうだと議論を交わす。つまり、彼らは物語を受け取る観客そのものとなるのだ。

また、加わった下人の存在は大きい。彼がいることによって、三人は一つの人格を分けた存在に見えてくる。つまり僧侶=良心(性善説を信じ、世の乱れを嘆く)で、下人=悪心(性悪説を信じ、諦めにも似た不遜な態度)だ。そして間に挟まれる木樵は、さながら頭の周りをくるくる回る天使と悪魔に振り回される、優柔不断でありふれた「人間」そのもの。
わたしたちは、木樵を中心とした彼ら三人と同期して振れ幅を経験する。事件の当事者たちもまた三人(夫・妻・盗賊)であり、二対の三すくみ構造が物語にどこか均衡をもたらしている。

そこに、映画版でのみ付加される木樵ビューの目撃談が投下され、均衡が崩される。
三種の当事者談に比べると最も中庸かつ感傷的でもあり、信じられる内容か…と思いきや、やはりそこにも嘘が混じり、たった一点でも曇ればそれはもう真実足り得ないことに気づいたわたしたちは愕然と取り残されることになる。

しかし、そこからさらに結末に向けた1ツイストによって、その思いには救いの兆しが残される。
この展開は小説『羅生門』成分のひとつでもあり、今作と『最後の決闘裁判』の方向性を大きく分けるものだ。

今作の結末は、真実は確かに「藪の中」かもしれないが、その物語を受け取った者がこれから目の前で起こる動かし難い事実に対して何を選択するかは自由であることを語っているのだと思う。単なるハッピーエンドというわけではなく、物語の抽象化・一般化を促す力強いフックアップだ。

それは奇しくも、小説『羅生門』で「潔く飢え死にするか、盗人に堕ちるか」の逡巡を経験する下人の姿とも鏡写しになって重なる。下人は老婆の語る話や自らのその場の印象などによって、ごく短時間にその両極を行き来する。それは小説では人の弱さ・曖昧さとして語られていたけれど、この映画では弱さを認識しつつも希望的な側面へとベクトルが向けられている。

『最後の決闘裁判』は、門の下の三人のような存在を置くことはせずあくまで当事者として事象に入り込み、寓話的な三すくみに見える物語にあえて「truth」を決め打つことで、これまで真実となる可能性さえ無視されてきた者たちの無念=過去を救おうと試みていたと思う。あえて比べて置くなら、『羅生門』は未来のほうを向いている。

荒廃する羅生門の風景は当時戦後の日本と明らかに通じるものであり、だからこそ僧侶に「人が信じられないならこの世は終わりだ」と繰り返し言わせ、これからを生きる人たちへのエールとしたかったのだろう。

羅生門の下に座り込むような思いは、現代においても誰もが経験し得る。そのとき、この作品はきっと多少なりとも雲間の方へと手を引いてくれる存在となるだろう。もちろん映像的な快楽(ぜんぜん触れられなかった)もさることながら、何よりはその普遍性、視点の高さが今作を名作として下支えしていると思う。

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小説『藪の中』『羅生門』ともに今は青空文庫でいつでも読めるし、現国の常連でもあり、今さら何を言わんやというところだけれど、あらためて読むと文がキレッキレすぎて慄く。

「雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。」
こんな文章、死ぬまでに一文でも書けたら藪に捨てられても文句は言わないな。