レインウォッチャー

愛、アムールのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

愛、アムール(2012年製作の映画)
4.0
これを《愛(amour)》と呼ぶのなら、あまりに重すぎる。

ハネケ×ユペールpart3、とはいえ映画の骨子はある老年夫婦の《実録・老々介護》的な密室劇に近いものであり、I・ユペールが演じるのは離れて暮らす娘役。アパートメントの一室という閉鎖空間で沼にも近い二人の世界に沈んでゆく夫婦=両親に対し、娘といえども隔絶された他者として観客に近い視線を提供する役割だ。

主人公の老夫婦役を演じるJ・L・トランティニャンとE・リヴァは、とてもひとこと「演技がスゴイ」などとは済ませられない(済ませたくない)凄みを見せてくれる。

長年連れ添って数えきれない記憶を共有したはずのエレガントな伴侶が、徐々に知らない《何か》の塊へと変わってゆくことの恐ろしさ。
想い出がひとつひとつ冷たい石ころになってポケットから零れ落ちるような虚しさ。
数千・数万遍の迷いを経た先に辿り着く無の境地。
そんなものが、時にドキュメンタリー的にも思えるような筆致で静かに迫ってくる。

しかし同時に、やはりあくまでも「映画らしい」表現が随所に光って、今作を豊かな映画体験たらしめていると思う。

たとえば、時間感覚の扱い方。シーンを跨ぐと思いのほか時系列が進んでいたり(病状の進行等で理解できる)、かと思えばひとつのカットを焦れるほど長く捉え続けたりする。
このような時間的な「揺さぶり」は、ほぼワンシチュエーションに近い映画の中にも退屈させないテンポの波を生みつつ、伸縮する主観的な時間(カイロス時間)に沿ったような印象で、この空間があくまでも夫婦に閉じたパーソナルな世界であることを再認識させるようだ。

また、ドア・窓の使い方も巧い。登場人物はたびたび、狭いドア枠に押し込められたように映される。スクリーンの中で、ドア枠はもうひとつのフレームとなって人物を切り出し、閉塞感・疎外感を与えるように思う。
特に外部からの訪問者(娘含む)がこの部屋に来た際、この枠に嵌められることで部外者であることが強調される。知らず知らずのうちに、観ているこちらも「なんか早く帰りたい…」という気持ちにさせられることだろう。

一方、窓は外界と繋がる出入り口であるから、正・負両方の機能が託されている。夫が窓を開閉する場面が幾度となくあるのだけれど、その都度都度で込められた意志は異なるように思える。それは時に諦め・拒絶であり、時には祈りだ。特に、開幕近くで示されていたとある「窓を開けたこと」の意味が最後になってわかったとき、大きなうねりとなって胸を揺さぶるのだ。

さて、このように積み立てられた結果をひとこと《愛》と提示されたとき、果たしてどう受け取るべきなのだろう?

病院に戻さないで、という妻との約束を守り通そうとした夫、ここまでしてはじめて《愛》と呼ぶことが許されるのならば、その重さがめりめりと脊髄に染み入るようである。エロースでもアガペーでも測りきれないところに削ぎ落された本質はあり、「愛さえあれば」なんて、とてもじゃあないけれど言えなくなる。愛は得難く、傷だらけで、あるいは最後の最後に残された言い訳だ。

2人の間にあった感情は、もはや外野の人間には想像すらつかない。しかしそれでも、自立できなくなった彼女を彼が支え起こすときの彼らは、わたしにはまるでぎこちない秘密のダンスを踊っているようにも見えたし…《その日》の空は、晴れていた。
そう、晴れていたのだ。

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認知症×アパートの一室といえば、記憶に新しいのはやはりF・ゼレール×A・ホプキンスの超傑作『ファーザー』。
あちらは患者本人のサイドに立つというツイストをキメてきたわけだけれど、今作の下地は間違いなくあったんじゃあないだろうか。

あとは、マスター・オブ・アパートの部屋ことR・ポランスキーの諸作。

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妻がもとピアノ教師(しかも弟子の有名ピアニストはシューベルト弾き)だったり、妻と娘の名前がアンヌ/エヴァだったり、『ピアニスト』『タイム・オブ・ザ・ウルフ』といったM・ハネケ過去作の名残りを感じたりもする。しかし作品の幅が広く、まだまだつかめないお人だわハネケ…