カラン

オールド・ボーイのカランのレビュー・感想・評価

オールド・ボーイ(2003年製作の映画)
4.5
映画評論が出自の典型的なシネフィル監督が、土屋ガロンの漫画を原作にした映画。面白い。見返すのは20年ぶりくらいだろうか、初めて観た時よりも面白かった。4K リマスターされたBlu-ray版も出ているようだが、レンタルDVDはまあ多少フォーカスが甘いところはあるが十分な画質でドルビーとDTSのサラウンドミックスが入っている。ハリウッドリメイクがあるのはご存知だろう。スパイク・リーが監督でジョシュ・ブローリン&エリザベス・オルセン出演のものだ。このパク・チャヌク版はずっとずっと映画的な冒険が多い印象だ。



☆錯乱光学系ガジェットと偏執的カット

鏡、瞳、ビデオテープ、水面、カメラ、ガラス、等々はものを映しだすこで人に何事かを認識させるわけだが、同時に、オリジナルとコピーの世界に認識を二重化する、つまり、真理を分裂させ、一方が他方をまがい物であると告発することになるような認識論的衝突の効果を与える。ウジンは鏡の反射の中で語り、その中にオ・デスは囚われる。オ・デスの知っていることの基盤が崩壊していく様を映画的に描写することに成功しているのである。まったくスペクタクルとはこのことである。

視覚のために供されるガジェットを、狂気をブーストするために、パク・チャヌクは映画内で縦横無尽に使いこなしている。ウジンの所有する真理としての真理が告知されようとする時に最大限に利用されて、鑑賞者の認識の基盤が次々に崩れてはまた別の真理が開示される。こういう時、往々にして映画は物-語りに堕すことになるわけだ。が、本作では、本当のことをご教示いただくつまらなさが、まったく感じられない。むしろ生鮮な印象すら与える。『セックスと嘘とビデオテープ』の語りを、錯覚の世界の横滑りで表現したという感じか。

あるいはまた、古い記憶の中の学校の教室で、近親相姦が姉の足に始まる。姉の身体を見ることに弟はこだわり、姉は拒む。それから弟が姉の身体に接触すると(弟の視覚が停止すると)、姉が手鏡で自分を映して近親相姦を視覚で捉える。すると窓から誰かが覗いている。こうした眼差しが織り上げるラビリンスは圧倒的な効果を持ち、ベラスケス(1599-1660)の絵画『ラス・メニーナス』のように非常に刺激的で魅惑的だ。このシーンの姉のフラッシュバックの入り口となっていたのは、美容室のおばさんの足であり、かつ、店に入ってきた若い娘の足であった。そして、足のイメージへの偏執が呼び込んだフラッシュバックの終わりを成すショットは、死んでいく姉の自撮りである。しかも姉の死への落下の背景はダムの水だ。そして『クリフハンガー』なみに伸ばした腕に虚無を孕みながら弟が流す涙。これでもかと光学系ガジェットで繋げる。素直に認められるかっこよさで、頭がおかしいが美しいシークエンスである。映画内が泣けば、鑑賞者も泣くなんていう安易な思いなしはまったく無縁で、手を替え品を替えで、パク・チャヌクはシネフィルを喜ばせようと奮闘する。

上記のフラッシュバックでは、オ・デスもウジンも「今ここの」姿のまま、「あの時の」学校に登場する。こうしたことはあえて原則を破るというやり方であり特殊なものであるが、先程述べたような、映画で教えてあげることの退屈さを、見事に回避して、人物たちの自分語りを生き生きとしたものにしている。




といいながら、☆5つとするべきところだが、どうも気になることがあって、ちょっと減点。

最近、ネットの世界に「怨恨」多くないですか?マウンティングされて、やり返す、みたいな。ネット記事とか、SNSのメッセージでも、馬鹿そうな漫画とかつまらなそうなゲームのしつこい広告とかにものすごい負のオーラを感じるんだよね。なんか恨みを抱えている人がやたらと多いってことでしょう。SNSでのやりくりってバランス感覚なんだろうけど、自分も気をつけようと。ネットを泳いでいると自然に、勝手に、無意識のうちに、怨恨を抱えこんじゃうんだよね。自動的に怨恨が増加するようなシステムなんだろうな、ネット社会のコミュニケーションの軽さが。面と向かっては絶対そんなこと言わんだろうことが言えるのが、よさなんだろうが、そこに陥穽があるよね。怨恨みちみちのこの映画を素直に評価できなかったってこと。はい、映画とは直接関係ないことを無駄に気になって、☆減らしてみた話でした。(^^)
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