映画漬廃人伊波興一

ビジランテの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

ビジランテ(2017年製作の映画)
3.8
兄弟であることの最後の繋がりであるはずの宅地。

何とか実らそうと必死に耕したのだが、
結局は何も実らぬまま晩秋を迎える不毛の地。
残されたのは一片の骨と夥しく流れる血糊。
久々に我が身を顧みました。

入江悠『ビジランテ』

色々な意味で著しく節操に欠ける私さえ全作品を読み切り、未だに飽きずに繰り返して愛読してる作家に中上健次がいます。

中上作品が私を虜にしたのは振り返りたくない、関わりたくない、断ち切りたい、と常に願いながらも土着的な母性父性の呪縛からどうあがいても脱しきれぬ因習という毒性に他なりませぬ。

その因習はこの「ビジランテ」で三兄弟が何とか我が物にしようと争う宅地のようなもの。
どこをどう耕そうともこの宅地も、心のどこかで望んでいる兄弟の絆と同様、結局は何も実らぬまま今年もまた晩秋を迎えるようです。

不毛の荒れ地の前で徒労の答えにいくら自若しても、三兄弟は土地にも、お互いそれぞれにも、見切りがつけ切れぬまま、一日の殆どを亡き父の遺した宅地獲得に奔走しています。

三兄弟の間にも、この宅地にも、絆どころか草木一本育つはずもないのは、(父)という毒性を秘めているから。

それでも除去する方法がない。

そのことはこの三人が誰よりも承知している。

大体、この尽瘁そのものが他ならぬ三人自身にとって身を持て余すほど重荷です。

彼らはこんな土地も、兄弟なぞも断ち切れるものなら、そうしたい。とっくに気付いている筈。

一郎二郎三郎という、そもそも名前からして親の寵愛を受けて授かったかさえ、今となっては分からぬ、大森南朋の長男も、鈴木浩介の次男も、桐谷健太の三男も、毒親・菅田俊の巨体に身を横たえてあの時、母と共に息を引き取るべきだったかもしれない。

毒親や荒れ地に相応しいのは、時々道に迷って、飄々とその上を横切っていく、諦めの速い、ダメなものはダメだ、とする者のみ。

死ぬことを知らぬ父性と言う因習。
それは、この映画の菅田俊ほどでないにせよ、なかなかの毒親のもとで生まれ育ってきた私自身にも必ずつきまとってきた(血と骨)という厄介な問題でもあります。

映画を観て我身を顧みるなんて久しぶりでした。