天豆てんまめ

ライフ・イットセルフ 未来に続く物語の天豆てんまめのレビュー・感想・評価

3.5
監督、あなたが信頼できない語り手です。

親友から勧められた映画だから、楽しみ尽くして、絶賛したかった😢

その独特の語り口に魅了されていく。語り部がスライドしていく。記憶と創作が混じり合っていく。幸せの絶頂と絶望の極致が1秒で切り替わる。その物語の描き方に監督の感性が溢れ出ていた。

妻オリヴィアワイルドを心底深く愛し過ぎたオスカーアイザックの心の崩壊。そして奇跡の子レイチェルクックのトラウマの反転。人命事故を目撃した少年のトラウマ。それに影響を受ける両親夫婦。命の連鎖と時空の奇跡の出会い。ボブディランの曲が物語を紡いでいく。これはなかなかいいかもしれない、と思っていた。途中までは、、

でも、だんだんと強烈な違和感が湧き上がってきた。

私は昔からずっと客観的に自身を眺める事が出来なかった。

主観に没入することしかできなかった。

映画でも1人の主要キャラクターに感情が入り込み過ぎてしまう。

だから、この作品の命の継承を俯瞰に捉えた幸福論は私には感情移入し辛かった。

幼い頃の記憶が呼び覚まされてしまった。

この映画は悲劇が衝撃的な形で現れる。

妊婦の母の事故死。父の苦悩の末の自殺。
そして2人から生まれる少女の奇跡。

父の嫉妬の末の逃走。愛する母の病死。
2人から送り出される少年の出会い。

そして人生の悲劇が結びついたその場所で2人が出会う奇跡。

そしてまた紡がれる未来の命。。


でも私が入り込めなかったのは脚本、監督の創作のストーリーテリングが、美しきかな神の視点の創作作為のように思えたからだ。私にとっては俯瞰でロマンティックであり過ぎた。

あの痛みを見せつけて、
それを奇跡で昇華する。

その構図は監督、あなたの頭で描いたもの。全ての映画の宿命として持つ創作性と作為性。

でもこの映画には作為性が勝ったように、私には感じられた。

嘘は嘘でいいんだ。

ならば、

人の死んだ瞬間をまざまざ見せるとか、、

交通事故で車内で父親の首が離れたのを娘が見る設定とか、

カウンセラーの目の前で銃で頭をぶっ放すとか、

バスにはねられた🚌時、頭から血がドローって流れるとか、

サミュエルLジャクソンに冒頭ナレーションで導入をつかむとか、

そんなトリッキーな見せ方で、極端な悲劇背負わせて、俯瞰の輪廻で命の奇跡っていうのは、、本当の痛みを知っている監督なのだろうか。

私はあのオスカーアイザックの究極の悲劇の瞬間を忘れない。妻の死と自分の死。それも私にして見ればこの監督はかなり意図的にそれを見せている。

それが嫌だった。

監督、あなたは人生が信頼できない語り手だと言った。

確かにそうだ。

人生は何が起こるかわからない。

記憶だって時に信用できない。

そして最悪の出来事が最高の幸せを生むことがある。

そんなことはわかってる。

私も戦死した父方の祖父が出兵直前に父が生まれなかったら私はこの世にいない。

吉川英治に師事していた母方の祖父が、大臣の妹だった祖母を嫁にもらうために作家を諦めて、医者にならなかったら私はこの世にいない。

大学生の父が母に、当時の婚約者から奪ってプロポーズしなかったら私はこの世にいない。

姉と私の間に1人、母が流産していなかったら私はこの世にいない。

私があの日、内定先から逃げ出さなかったら妻と出会えず、息子2人はこの世にいない。

他にもあまりに沢山ある

予測もコントロールもできない気まぐれで信頼できない人生の不可思議な偶然で、今、存在できている。

人生万事塞翁が馬。

それはそう思う。

ただそれをセンセーショナルに、あまりに重いトラウマを背負わせた悲劇と、俯瞰で紡がれる運命の奇跡を、等価交換することはできない。

だから、もちろん人生が語り部として私たちが裏切ることだってあるけれど、

この作品において私にとっては、、

監督、あなたが信頼できない語り手です。

そのお陰でトラウマになった少年。引き裂かれていく夫婦。夫婦に入り込む雇い主アントニオバンデラス。そして居場所が亡くなる夫。

私が感情移入したのは

絶望のうちに自身を見失い死んだ男

それと

嫉妬のうちに家族を手放し魂が死んだ男

この2人の痛みが残っている中で、俯瞰の奇跡を見せられても、それで良かったなんて決して言えない。

トラウマを徹底的にキャラクターに与えながらも、人はどのようにトラウマから放たれるのがが、描かれていない。

私もささやかながらトラウマがある。

4歳の頃、いつも一緒に遊んでいた2歳上の従兄弟が急死した。インフルエンザで42°の熱、医者が解熱剤を出したら熱が下がり過ぎた。母は私を葬式に連れて行った。いつも優しい叔母さんが泣き崩れて叫び苦しんでいた。数日前まで元気にいた従兄弟は棺の中で真っ白な陶器のようだった。死の概念なんか知らなかった。でもその顔が離れなかった。死を完全に理解したわけではないけど、深く感じてしまった。躍動した命が蝋人形のようになる死の恐ろしさ。それから1年夜中うなされて母を何度も起こした。幼稚園で担任がカーテン閉めて怪談話をし始めたらウーっと唸り始めてガタガタ震え出し中止になった。担任が家まで来て母に謝っていた。死ぬということの底知れぬ恐ろしさを5歳の時は毎日怯えていた。どこまでも底のない穴に落ちていく感覚。10代は極度の緊張症と自律神経失調症、パニックアタックもあった。センター試験では緊張のあまりオシッコを漏らした(愛を乞う人レビューに書きましたが)今もほとんどのホラー映画は恥ずかしいことに怖くて観れない。

起こった出来事を極端にしてトラウマを植え付けることをしなくても人は十分に心を引き裂かれる引き金になる。

扱っている題材が、トラウマ、なのに、そのことで本当に悩んでいる人への寄り添いの映画にはなり得ていない。

それが残念だ。

この作品は作者の創作意欲を果たすトラウマを利用してるような気がする。

私はこの映画より傷ついた人に寄り添った人生の奇跡を描いた脚本を書きたい。生きているうちに。

傷ついた人が、傷ついたまま終わり、別の誰かにバトンが渡される話ではなく、、

傷ついた人が、本当にその深い痛みを昇華していくような作品を。

この映画によって創作意欲が刺激されたのでそれは良かった。

私は今もあの幼少時の時の痛みを抱いて生きている。でもそれは自分を形成している宝物だ。クールで神経質な点のある長男も、優しく繊細な次男にもあの頃の私の痛みが見え隠れする。

それはもちろん過去から繋がっている。

そしてもちろん未来へ繋がっていく。

だから私の内なる痛みもトラウマも息子たちの痛みも、その存在全てを抱きしめて生きていきたい。そして全てを愛せるようになりたい。

生きているうちに。