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アネットのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

アネット(2021年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

ロサンゼルス。毒舌で人気のスタンダップ・コメディアン、ヘンリーと、国際的なオペラ歌手のアン。「美女と野人」と揶揄われる程にかけ離れた2人は恋に落ち、やがて世間から注目されるようになる。だが、仲睦まじく暮らしていたヘンリーとアンの間にアネットが生まれたことで、彼らの人生は狂い始めてゆく…。

かつて前世紀末に「恐るべき神童」「ゴダールの再来」と呼ばれたフランス映画界の異端児レオス・カラックスの9年ぶりの長篇。
本作は、カラックス監督初の全篇英語劇で、しかもほぼ全てのセリフが歌われるというミュージカル。
相変わらず挑戦を怠らない、カラックス監督の尖った感性が感じられる作品である。

序盤のストーリーは彼の初期作品と同じ、「ボーイミーツガール」である。
舞台で悪態をつき、夜の街をオートバイで猛スピードで疾走するヘンリーはどう見ても破滅型の人間。
舞台で何度も死を演じるアンが現実世界で危険を恐れぬヘンリーに恋するのは、お嬢様が逞しい不良に恋するようなものだ。

恋愛や生きる歓びを謳い上げるミュージカル映画特有のロマンティックな物語か?と思いきや、ダークなファンタジーへと転換して行く。

やがて2人は結婚し、アネットという女の子が生まれるが、これが見紛いようのないパペット(操り人形)なので唖然とする。
なぜ「操り人形」なのか?
これが驚くほどストレートな意味なのは、終盤で分かるが、その意味が気になって仕方なくなり、物語を見続けることになる。

間も無くして、ヘンリーは没落。
そりゃあそうだろう。
世の中に、自分自身に唾を吐いてきた人間がプライベートでは保守的な暮らしをしているのだ。
観衆もヘンリーを信じられる訳がなく、人気は低下。
ヤケ糞の自虐ネタを演じる姿が痛々しい。

対するアンは、あんな野蛮な輩を愛するなんて何と心の広い女性なのか、と姫が母になっても彼女の人気に翳りはない。
ここはハリウッドで幾度もリメイクされた「スタア誕生」のセレブな夫婦間の成功格差のモチーフの変奏である。

愛憎渦巻く関係を修復させようと、ヘンリーは家族3人でヨット旅行に出かけることに。
そこで事件は起こってしまう。
酒に酔ったヘンリーは甲板の上でアンにワルツを踊るよう強制し、足を滑らせたアンが海に落ちてしまう。
酔っ払っていたヘンリーは助けられず、アンは海へと消えていく。

その後、ヨットも沈んでしまい、ヘンリーとアネットは救命ボートに乗り、どこかの島へと流れ着く。
疲れ果てたヘンリーは眠りに落ちると、夢の中で変わり果てたアンが現れる。
夢の中でアンはヘンリーに「一生祟る、自分の歌声をアネットに譲りヘンリーを苦しめる」と話すと、海へと消えていく。
まるで日本の怪談モノのようだ。
ヘンリーとアネットはその後、無事救助される。

ヘンリーは警察に事情聴取を受けるが、アンの転落は事故として扱われる事に。
果たしてアンの死は本当に事故と言えるのか?は、とても疑わしい。
妻の名声への嫉妬から「死んでしまえば良いのに」と思っていたに違いない。
そうすれば自分が悲劇の主人公としてまた名声を得るだろうとも。

ヘンリーとアネットは2人で暮らすことになったある日、アンが乗り移ったような美しい歌声で歌うアネットにヘンリーは驚く。
ヘンリーはアネットを大々的にデビューさせることにする。
アネットの歌声は大きな反響を呼び、世界ツアーをするほどになる。

アネットが操り人形の姿だったのは、ヘンリーの金儲けの道具であると同時に、アンがヘンリーを名声の絶頂から叩き落とすための道具だったことが分かる。

ヘンリーはアネットの歌のおかげで裕福になるが毎日酒に溺れていく。
それはアネットが賞賛されるのは自分ではなくアンの才能が遺伝したためだという嫉妬、またアネットの歌を通して思い起こしてしまうアンの死に対する自責の念から。

ある日、ヘンリーが酔っ払って帰ると、演奏家がアネットにヘンリーとアンの思い出の曲を教えているのを目撃。
その曲を演奏家が作ったこと、演奏家がヘンリーとアンが付き合う前のアンの恋人だったいう事実を知る。

アンとの幸せな思い出を持つ演奏家を嫉妬のあまりヘンリーは殺害。
今度はアネットに殺人を見られていたのではないか?と怯えるようになる。

ほぼほぼ、後半のストーリー展開は「四谷怪談」だ。
ヘンリーを怨む幽霊のアンはお岩。
演奏家の立ち位置はお岩の間男として殺される宅悦、そしてヘンリーはお岩の幽霊に悩まされて殺人を犯す伊右衛門である。

もしやヘンリーは娘アネットも口封じに殺すつもりではなかったのか?
だが、アネットの引退の舞台、スーパーボウルのハーフタイムショーで、アネットは歌うことなく父ヘンリーの殺人の罪を大観衆に告白する。
まるで、自分が殺されるのを回避するかのように。
幼子が初めて喋った言葉が「父は人殺し」とは何と哀れで衝撃的なことか。

ヘンリーは逮捕され、有罪判決を受けて収監中もアンの亡霊に苦しまされる。
ヘンリーの転落でアンの復讐が達成された訳でない。
罪悪感は死ぬまで続くのだ。

数年が経ち、アネットが服役しているヘンリーの元に面会にやってくる。
これまで操り人形の姿をしていたアネットは生身の人間の姿になっていた。
これは1人の人間として自我が目覚めたことを意味するのだろう。

アネットはヘンリーの謝罪を受け入れようとせず、母親のアンでさえ自分を怨みを晴らす道具にしたのだと激しく非難する。

ヘンリーは愛させて欲しいとアネットにお願いするものの「貴方が愛する者はどこにもいない」と、アネットは冷たく言い放ち、アネットは去っていく。
ヘンリーの足下には、もう動くことのない操り人形が転がっていた。

個人的にストーリー展開はとても面白かった。
まるで「男のワガママ」の断罪である。
不良を気取り、世に悪態をつく目立ちたがり芸人というヘンリーの設定は、まるで反抗期の男性そのもの。
愛する女性の成功に、そして他の男性との過去に嫉妬するのも、男性の女性に対する支配欲に見える。
アンが子どものアネットを残して死んでしまうのは、離婚のメタファーか。
アンの呪いというのは、パートナーであった女性の遺伝子を持つ子どもへの「終わらない責任」のメタファーに見える。

子どもを操り人形とするのは、「ウチの子は可愛いでしょ、凄いでしょ」とひけらかし、子どもの気持ちなど考えず、人権をも無視する馬鹿親(毒親)のメタファーのようだ。
自分にはこの作品がレオス・カラックス監督の男としてワガママを貫き続けた半生を振り返り、大いに自己反省したプライベートな作品に見えた。
男しては考えさせられるものがある。

だが、本作をミュージカルで描く必要があったのか?は甚だ疑問である。
アメリカのミュージカル映画のように生きる歓びを謳い上げることはカラックス監督はしない。
そこには「人生そんなに甘くない」という反抗精神が見られて面白い。

本作は全編セリフを歌で綴る悲劇だ。
人物の感情の爆発を表現するようなダンスも振付もないのは、フランスのミュージカルの名作、「シェルブールの雨傘」と同じような狙いを感じる。
だが、残念ながら「シェルブールの雨傘」のように耳に残る(脳裏に刻まれる)切ないメロディが無いのは大きなマイナス。

調べてみると、本作の話はもともとポップバンド「スパークス」がアルバムのために企画したものらしい。

考えてみれば、カラックス監督はこれまでも音楽を印象的に使ってきた。
「汚れた血」で、デヴィッド・ボウイの「Modern Love」が流れるとドニ・ラヴァンが疾走するシーンとか、「ホーリー・モーターズ」で、ドニとカイリー・ミノーグがデュエットするシーンなどインパクト大だった。
ミュージカルへの憧れがあったには違いない。
しかし、アダム・ドライバーとマリオン・コティヤールという旬の役者を配しているにも関わらず、ずっと平坦なメロディにセリフを乗せることが役者の感情表現の妨げになっているように感じてしまうのだ。
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