レインウォッチャー

心と体とのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

心と体と(2017年製作の映画)
4.0
同じ夢を介して交わる二つの孤独な魂。

映画の中で起こるマジックやファンタジーには、愛を助けることはできても叶えることはできない。最後には、自分の言葉で伝えなくっちゃ。
当たり前ながら、そんなことを思い出させる。それも、とても奇妙でキュート、そしてちょっと傷つくやり方で。

ある食肉処理場で管理職を務める男と、新任の女性社員。二人はそれぞれがそれぞれの孤独を抱えている。
男は片手が不自由(※1)で、どうやら過去に結婚に失敗して以来、長らく独り身。女は無口で冷徹に見え、同僚からも敬遠されるけれど、おそらく自閉スペクトラム的な傾向を抱え、同時に精密な記憶の才能(サヴァン?)も持っている。

そんな初めはまったく反り合わない二人が、職場で起こったある事件をきっかけに毎夜まったく同じ夢を見ていることを知り、接近する。夢の中の森で、二人はつがいの鹿だったのだ。「今夜も夢で会いましょう」。

夢を共有しているとわかっても現実ではなかなか急には縮まらない二人の関係は、微笑ましくもどかしいと同時に現実らしい。すれ違い、掛け違え。その様は、映画の外のわたしたちと何ら変わりないと思える。
夢の中の姿は、たとえばふだんSNSや職場で被っている別の仮面(ペルソナ)になぞらえることもできるだろう。無垢で清浄、物言わぬ存在である鹿は、アプリや綺麗なスーツで加工された「よそ行き」の偶像なのかも。

しかし、現実に触れあえばそこには体温や臭いがあり、血が流れる。映画は常にやわらかく明るい光を湛えていて、静かに二人を見守っている。カメラは時に静物や室内を見つめたままその場に留まったりもする。
一方、そんな静謐でジェントルな視点が、ふと(彼らの職場である)血生臭い屠殺の現場(※2)に注がれたときにはひとときに体温の下がる思いがする。この落差は、そのまま彼らが体験する夢と現実のギャップなのかもしれない。

まあさておき、とにかく二人のうちガールのほう=マーリア(A・ボルベーイ)の歩み寄りがあまりにいじらしくてイビツで愛らしくて悶える。
初めはつま先を日向から影に引っ込めていたような彼女が、会話の反省会やシミュレーションをしたり、それでも(当然)予想通りにはいかず地獄な空気になったり、接触に慣れようと試行錯誤したり(※3)。積もり積もったラストの方では、思わず「ばかばか!」「はやく!」「いやそれは今いいです!」とか声に出しちゃったぜ。(なお一人の模様。)

さて、そんな二人はどんな結末に行き着くのか、そしてこの先どうなってゆくのか。
夢の森で鹿の毛にやわらかく降り積もる雪と、テーブルにこぼれて掃われたパンくずは重ねられてもいるようで、あるいは夢は宙に消え、続きはないのかも。二人はまだまだ話すべきことが沢山あるのは確かだろう。

そもそも、今作は実はえげつない皮肉を隠している可能性もある気がする。というのは、やはり舞台が食肉処理場であるということに関連する。主人公二人の職場では日々刻々と牛が殺され続けているわけだけれど、彼らが夢の中で自らを投影したのは機械的に殺され食われる役割の牛ではなく、優美な鹿だ。
加えて、二人はそれぞれ財務部長と品質監査官。つまり、現場で実際の処理作業にあたることもないということになる(実際、そういった言及も散見される)。ここに、彼ら…というか恋愛・コミュニケーションそれ自体が孕むナルシシズムを感じる…ってのは考え過ぎだろうか?

いずれにしても、こんなちょっとした毒の気配が今作を忘れ難い作品にしていると思う。胸キュンにだって苦味は必要でしょう。
そんな味を嚙みしめて、狭くなったベッドから投げ出され汗が冷えて痺れた腕の感覚を思い出したりしたのなら…今夜あたり、夢で会いましょう。

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しかし一番笑ったのは、公式サイトを見るとポール・ヴァーホーヴェン大先生がコメントを寄稿してたことである。
「思いやりを思い出させてくれた」。ヴァーホーヴェンの思い…やり…だと?

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※1:彼の固まった手の形は、どこか蹄に似ている気も。

※2:あまりに鮮やか過ぎるマゼンタに近い赤は、ところどころでリフレインされる。食堂のいすやマーリアのカーディガン、そして終盤のあのシーンへ。

※3:マーリアが「愛の歌」を探して辿り着いた曲は、Laura Marlingの『What He Wrote』。アンニュイな中低音の声が魅力の彼女、わたしも大好きなミュージシャンなので思わぬサプライズに嬉しかった。また、お顔の作りがどことなくマーリアに似てらっしゃるので、「もしかして本人が演技してるの?」とか一瞬思ってしまった。