映画漬廃人伊波興一

検察側の罪人の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

検察側の罪人(2018年製作の映画)
1.4
原田眞人『検察側の罪人』

近年の日本映画にコミック原作の作品がいやというほど氾濫している事実が興行の活気に必ずしも貢献しているとも思えませんが、自分の作品に事件や犯罪者を登場させねば気がすまぬ、という傾向にも何処か不健全な気がいたします。

それが悪への誘惑のもとに眠っているフイルムの感性を目覚めさせるようなノワールタッチならともかく、およそ画面の陰影が欠けた時事ネタ風とか、あるいは世論の煽りに根ざした言説めいたものだけが占める作品に触れ続ければ次第に食指が動かなくなってくるのも当然の事。

もちろん『検察側の罪人』の俳優陣が全く魅力に欠けているとか、原田眞人の視覚的演出がそれまでの『バウンス to GALS』より劣っている、というわけではありません。
実際、新米検事ニノが異様極まりない酒向芳に迫る取調べの場面にはさすが、『KAMIKAZE TAXI』の監督だなと思わせる息を呑む活気が漲って、ファンとして嬉しい限り。
ですが、『検察側の罪人』が映画ならではの(曖昧さ)が希薄になっている決定的な致命傷は、明らかに画面が主題に従属している点。
本来、魅力ある映画画面には、すべからくこの(曖昧さ)が蔓延しているのはご周知の通り。
ですが、『検察側の罪人』では、それを完全に忘れたかのように吉高由里子が原作小説のセリフそのままのような説明をひたすら長々と下す。
観ている私たちは素直に画面に埋没できずに物語の推移のみをたどる悪循環に陥ってしまいます。
犯罪映画ならせめて、もう少し強めの風で劇中人物の髪を靡かせてくれるか、夜の雨の滴りで画面を濡らしてくれれば共謀の成立を許す心地よい風土に仕上がるだろうに、小刻みな編集による目まぐるしショットの多用で劇作上の驕りが否が応でも透けて見えてきます。

特に目のやり場に困るのがラストの木村拓哉とニノの二人芝居。
もはや画面どころか、映画そのものが物語の主題に従属しているかのようなセリフの数々は聞いていて思わずどこか悲しくなってしまいます。
ニノのセリフ(僕は真実を最後まで追い続けます!)
別に真実を追い続ける事が悪いと言うわけではありませんが、映画である以上画面を追い続けて頂きたい。
罪人は検察側ではなく、画面が主題に遅れをとる事を赦した私たち受け手側にいるかもしれません。

因みに原田眞人監督曰く
インターネット上での評論が活性化した近年の風潮を「悪貨」として否定し、ネットに拠らない「本物の映画ファン」の意見こそが重要だと話しているそうです。

私は『悪貨』でも構いませんが、『本物の映画ファン』である事だけは堂々と公言しておきます!