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ザ・スクエア 思いやりの聖域のkenjistanbulのネタバレレビュー・内容・結末

4.8

このレビューはネタバレを含みます

問題、あるいは事件には、ある見方の一つとして、「加害者と被害者」という、簡単な二項対立が存在すると思う。
でも、加害者と被害者が何なのか、この映画を見て、もう一度考えると共に、もやもやっとしています。

たとえば、炎上動画をあげる件。あれを見て不快な思いをした人は被害者か、あのアイディアを思いついた2人は加害者か。
それに待ったをかけらなかった主人公は加害者か、それともあんな謝罪会見をさせられて被害者か。
ああいう動画であれば「この社会」では広報効果があるだろうと、あの2人に思わせてしまった「この社会」を構成している私達1人1人も、実は加害者なのかもしれない。あのアイディアを思いついた2人を育てた家族は?美術館という存在は?誰が加害者で誰が被害者かって、意外と複雑で、少し残酷なんだなと、思います。猿人のシーンも、盗まれた携帯の一連の流れも、料理の詳細の話を全く聞こうとしないエリート達も。
だからこそ、こういう映画が必要なんだと思うんです。

罪を償いきれずに終わる感じは、僕の大好きな「セールスマン」に似ていて、エンドロール見てる時の胸騒ぎを演出してくれて、すごく好きなタイプでした。

結局、法律も神様も、自分を許してはくれなくて、本質的に自分を許してくれる・救ってくれるのは、「自分」なんだと思います。裁き手は常に「自分」なんだと思うんです。

ザ・スクエア。その四角のなかでは、世の中の煩雑さなんて考えなくて良くて、加害者・被害者が誰であれ、裁き手が誰であれ、困っている人に救いの手を差し伸べる。そんなユートピアみたいな信頼と思いやりの世界では、罪悪感も自己顕示欲も無い。そんな聖域を、「アート」という名の下に、「美術館」に作ることは、人類最大限の「あがき」なのかもしれないと思いました。
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