デニロ

女であることのデニロのレビュー・感想・評価

女であること(1958年製作の映画)
3.5
1958年製作公開。原作川端康成。脚色田中澄江、井手俊郎 、川島雄三。監督川島雄三。原節子、森雅之の夫婦というだけで重厚な、といおうか風通しの悪いと言おうか、腹に一物あると言おうか、そんな家の風景を観るだけで疲れる。加えて、久我美子、香川京子、三橋達也ですから、それぞれに見せ場を作ります。原作は川端康成、無論倒錯ものです。国立映画アーカイブ/受刑者の娘を預かる弁護士夫妻(森、原)の許に、大阪から家出娘(久我)がやってきて騒動が巻き起こる。「君も出世ができる」を送り出した谷川俊太郎と黛敏郎の初顔合わせとなった記念碑的作品。丸山(美輪)明宏が歌う主題歌はシャンソンのような洒脱な歌詞とメロディで、丸山がフレーズごとに次々と衣裳を取り替える演出と相まって見る者に鮮烈な印象を与える。/というところから物語は始まる。2017年に神保町シアターで観ているのだけど忘却の彼方でした。

大阪から家出してきた久我美子は原、森夫婦の前でわがまま放題し放題。/不可能なことなどないわ。Impossibleは、I’m possibleってことなのよ、/と言ったオードリー・ヘップバーンの如く伸びやかに振る舞います。原節子には同性愛的恋情を抱きくちびるを重ね、翻ってその夫森雅之にはコケティッシュに振る舞い惑わせます。原節子も、もはやどうしてよいのやらドキドキハラハラ。遂に彼女のあんまりな振る舞いに森雅之は打擲します。すると、おじさまもおばさまも好き、・・・二人とも好きな時の自分は嫌い、という謎の言葉に誘われてひしと抱き締めてしまう。

殺人の罪で公判中の父親の弁護人森雅之の家に置いてもらっている香川京子もまた夫婦に思慕を抱いているけれど、新たにやって来た久我美子のように振る舞えないのは遠慮なのかどうなのか。でも、彼女は石濱朗という大学生と付き合っていて、不純異性交遊を求められても毅然とお断りしていたのだけど、ひとり留守番の夜、石濱朗を家に誘い受け入れる。その気配を久我美子が察したりして作者たちも意地が悪い。久我美子との同居は居心地が悪く、置手紙して夫妻の家を出て石濱朗の下宿に転がり込む。多分、彼女との結婚などはじめから念頭になかった石濱朗はいただくものは戴いたという満足感を得て、こころは離れていくのだけど、この関係は続けようという彼の身勝手極まりない言い草を聞いた香川京子は、ふっと嫌になり、遂に別れが来たことを知るのです。

さて、若いふたりの女性を家に置くことになった原節子。もはや夫婦でもなくなっていた夫の表情に生気が漲ってきたことに複雑な思い。そんなある日、明日をも知れなかったあの時代カラダを重ね合った三橋達也と邂逅します。♬/一晩ぐらいは あいさつがわり/つき合わないかと アイツが囁く/とまどいトワイライト体も揺れる/とまどいトワイライト私も揺れる/♬(とまどいトワイライト/歌:豊島たづみ/歌詞:阿木燿子)こころもカラダも千々に乱れ三橋達也のもとを訪れる。クロネコヤマトじゃ、一歩前に!が、そこに現れるのが魔性の女久我美子。森雅之のこころを弄んで満足したのかもう乗り換えている。というわけで、原節子のカラダは紅蓮に燃え滾る。

そんなこんなの原節子と若い娘に挑発された森雅之の間に情欲が呼び覚まされこどもが出来る、という風なラストになるんだけど、そんな解釈でいいのかしら。

そして、騒ぐだけ騒いでいた久我美子が、違ったところで、違った自分をさがし出したい、と雨の中去って行くのでした。

国立映画アーカイブ 日本映画と音楽1950年代から1960年代の作曲家(黛敏郎)たち にて
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