このレビューはネタバレを含みます
渋谷UP LINKの企画上映「挑発するアクション・ドキュメンタリー 原一男」にて鑑賞。
2005年のクボタショックで全国的にクローズアップされたアスベスト被害。
その産業が盛んだった大阪泉南地域の被害者を中心に、10年近い歳月の国との闘争を記録した三時間半の大作。
まずもっての感慨が、「結局は法に則って闘うことしかないのではないか」ということ。
上映後に原監督のトークショーを直に聞かせていただき、「現代人に欠如している『怒り』を観客に示したかった」とのことであったが、正直を言って、情に訴える行動は功を奏していない。
特に象徴的なのが、総理官邸前でのデモの際に、共同代表の一人の依岡さんが独断で総理への直訴状ともいうべき建白書を渡そうと警備員や役人と揉み合いになるシーン。
結局は制止され、弁護団からも「抗議行動に原告が欠席して勝手な行動をしている。こんな裏切りは無い」と呆れとも憤りともいう叱責を受けているが、その指摘が至極もっともに見えた。
その直後のシーンでも同じく共同代表の佐藤さんが、裁判の長期化で亡くなっていく原告団一人一人の惨状を涙ながらに訴えているが、彼らが数十年間をそうした悲憤の理屈の中で生きてきたのと同様、彼らが相手にしている「国」側の人たちはそれまでの生涯の殆どを法とルールでがんじがらめにされた競争の中に在った人達。
そうした人達にとって情に訴える行動は異次元のものであり、悲しいかな響くはずがないのでは無いか。
途中の弁護士へのインタビューでも語られていたが、法というルールに則って闘い非情な判決が出たからこそそれを覆そうと支援の手を差し伸べてくれた方々が増えたはずであり、物語のラストでの当時の塩崎大臣の遺族への謝罪訪問は法の力の最たるものである最高裁の判決を受けてのもの。
原告団という組織となって裁判で闘う道を選んだからにはその途上でどれだけの失意が襲おうとそれを貫徹すべきで、それでこそ支援者も増えるのではなかろうか。
マハトマ=ガンジーが徹底非暴力主義を貫いたのは、暴力そのものを絶対的に否定するというよりも、暴力に暴力で返したいのをグッとこらえた憤懣のエネルギーを他の形での抗議行動へ爆発させるべきとの信念、とどこかで読んだ覚えがある。
依岡さんが最後に判決を受けても納得はいっていない、との本音を語っていたが、それであれば己の信ずる正義のままにたった一人で塩崎大臣の自宅に押し入って馬乗りになって殴り付けるしか無いのでは無いか。かの神軍平等兵・奥崎謙三氏のように。
完全にピントがズレてしまうが、個人的に一番感情移入してしまったのが、詰め掛けた原告団に二人だけでの対応を余儀なくされた役所側の総務課の職員二人。
情を剥き出しに原告団に詰め寄られてしどろもどろになり、それでも上司に対応を委ねることも出来ずひたすら堪える中間管理職の鬱積が集約された画であった。