吉田ハム

スリー・ビルボードの吉田ハムのレビュー・感想・評価

スリー・ビルボード(2017年製作の映画)
3.7

※ネタバレを含みます※

本作は公開されるや否や様々な批評家に大絶賛され、オスカーレースにおいても序盤からフロントランナーとして快走した、ガチ“オスカー大本命作品”である。この時期になると、ちょっと社会派作品であるというだけですぐ“オスカー大本命”とキャッチコピーをつけたがる配給会社があまりに多く、誠に遺憾である。しかし、本作はそういった偽オスカー大本命作品(作品内容の批判をしている訳ではありません!配給会社のキャッチコピーのつけ方にキレてるだけです!)とは一線を画した作品である。

本作を理解するにあたって重要な点は、
・署長がなぜ自殺したか
・それを受けミルドレッドとジェイソンの心理がどう変化したか
という点である。序盤はいかにもな反体制的作品として描かれている。ミルドレッドは周囲の妨害も跳ね返し、己の正義を貫く強い女性。そしてそれを抑え込もうとするジェイソンと署長。ハリウッドが好きそうな作品である。しかし、中盤辺りから流れがコロッと変わってくる。具体的には、署長の自殺を受け(そして署長の遺書を読んで)ミルドレッドとジェイソンの心理に大きな変化が生じるのである。これはどういうことなのか。3人の主要人物の立場から考えていこうと思う。

主人公のミルドレッドは看板を建てた張本人、跳ねっ返りの若手警官であるジェイソンはその看板の反対派、そして病気の署長は“中立派”である。署長は当初は反対派の立場をとっているが、自分に非があると認めているし、子供を喪ったミルドレッドに感情移入もできている。一方で、看板による様々な弊害も理解できている。よって署長は中立派なのである。それぞれが看板賛成派(ミルドレッド)、看板反対派(ジェイソン)、中立派(署長)の代表者として描かれている。そう、スリービルボードとは3枚の看板ではなく、主要登場人物である3人のことだと捉えられる。

それぞれの言い分はよく理解できる。ミルドレッドは自分の娘がレイプされ殺害され、しかし犯人は捕まっていないために警官たちの怠慢を容赦なく叩く。ジェイソンは3枚の看板を酷く迷惑がり、なんとか撤去させようと広告会社の社長・レッドに突っかかったりする。それぞれの正義の下に、時には過激な行動もとるようになる。そして、署長はその板挟みにあう。

正義と正義の対立…戦争である。「正義の反対は悪ではなく、もう一方の正義である」…至る所で見られるこの名言を可視化している。お互いが正しいと思っているからこそ譲れず、衝突し戦争が起きる。本作は、戦争の様式をアメリカの田舎町のいざこざに縮小して描いているのである。

2つの正義の衝突の中で、署長は亡くなってしまう。彼が亡くなったのは病気が原因ではなく、犯人を見つけられなかったという自責の念と、板挟みにあって心身共に疲弊したことである。もし病気で亡くなるのであれば、彼は病院のベッドでモルヒネをうたれ、安らかに亡くなるはずである。しかしそうではなかった。無理をしてでも帰宅をし、家族と最期の時を過ごし、そして自ら命を絶ったのである。
署長は双方の言い分がよく分かる中立派であった。ミルドレッドとジェイソンのそれぞれに味方をし、遺書では2人を擁護している。しかし、2人が相容れない正義をぶつけ合った結果、彼は“殺されてしまった”のである。

映画を観ていると、ところどころ看板を裏から撮るシーンが出てくる。これは「物事を別の捉え方で見る」ということのメタファーである。看板は不正を訴えたものであるが、一方で署長を殺してしまったものでもある。正義を過激に振りかざした結果、犠牲者を出してしまったことにミルドレッドは気づくのである。

また署長の死は、ジェイソンの心理にも変化を加えた。今までは拳で解決することにしか能のなかった男が、ミルドレッドの気持ちを酌めるようになったのである。そして大火傷を負って入院した時のレッドからのオレンジジュースで、彼は自分が間違っていたことに気づくのである。
このレッドとのオレンジジュースのやりとりは涙無くしては観られない。「汝の敵を愛せよ」を完璧に体現している。欧米人にとって当たり前であるこの考え方を、皆いつの間にか忘れてしまっている。「怒りは怒りを来す」…ならどうすれば良いか?それはこのシーンに全て詰まっている。

そしてエンディングでは、別々の正義を持った2人が手を取り合って終わるのである。

自分を理解してもらおうとするよりも、まず相手を理解する。これがこの映画のメッセージであると私は受け取った。ミルドレッドの娘を殺した犯人が誰であるとか、隣町のレイプ魔をどう始末したのか、ということは重要ではないのである。

以下、雑記。
・この映画が終わった時は、「結局、他人と言うのは絶対に理解できないものだよ」ということを語った作品なのかと思った。というのも、エンディングでミルドレッドとジェイソンが隣町のレイプ魔を始末しに行こうか、というところでイマイチやる気がおきてない様子が描かれている。これは、「レイプされたのが自分の子ならいざ知らず、他人の子ならどうでもいい」ということを言ってるのかなと考え、ミルドレッドがどう頑張っても理解されなかったのは「結局、他人~」だからなのかと思えたからである。
・では逆に、あのエンディングはどういうことなのだろうか。もう少し咀嚼をしないと分からないが、思いつく1つにミルドレッドとジェイソンの心理的な変化を描いたものであることが挙げられる。署長が亡くなる前の2人であれば、鼻息荒くレイプ魔を始末しに行っただろう。しかし、本作ではそうしなかった(もしかしたらエンディングの後そうするかもしれないが)。これは、正義を振りかざすことだけが解決の道ではないと2人は思い知ったからである。一方で、ではそのレイプ魔をどうするか、ということの結論を未だ出せていないという心理も描いている。それは「道々考えましょう」と言うミルドレッドのセリフからも窺える。これは、相手を理解するには、それ相応の時間がかかるということを表しているのではないだろうか。
・原題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」。直訳すれば「ミズーリ州の郊外の外れにある三枚の看板」といったところだろうか。本作は戦争の縮図であると本文でも触れたが、そういった戦争がこのような郊外でも起こってもおかしくないんだよ!とタイトルを使って警鐘を鳴らしているのではないかと感じた。また、そういう導火線があちこちに散らばった状態にあるアメリカを皮肉ったタイトルであるとも捉えられる。
・ハリウッドが大好きな反体制的な話に対するアンチテーゼを感じた。正義はいつも正しい訳ではなく、1つの考え方の域を出ないのである。
・ミルドレッド役のマクドーマンド、ジェイソン役のロックウェルはどちらも熱演!これはオスカーに選ばれてもおかしくない。
・そして署長役のハレルソンも素晴らしい。個人的には彼にオスカーをあげて欲しいところ!
・そうか…看板は3枚揃わないと意味を成さない。実は序盤の看板の観せ方でメッセージを伝えていたのか。
吉田ハム

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