レインウォッチャー

ブリグズビー・ベアのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ブリグズビー・ベア(2017年製作の映画)
4.5
くまさんの、言うことにゃ。

危険な外から隔離され、両親と暮らす青年ジェームス。毎日の楽しみは、ビデオで観る冒険番組『ブリグズビー・ベア』。毎週新作が届くのだ。
しかし突然警察が現れ、両親を逮捕する。なんと両親も『ブリグズビー』も偽物だという。実の両親と再会を果たし、新たな生活が始まるはずだったが…?

斜め上の導入から幕を開ける、ちょっとファンタジックで切なさを含んだやさしい家族コメディでありつつ、実はあらゆる創作物と、作者と、受け手との関係のあるべき姿に関する哲学が見えてくる作品。

外の世界へ「救い出された」はずのジェームス。しかし彼は『ブリグズビー』を求める。
その虚飾を知ってもなお、その続きを自らが映画として描こうとするのだ。
当然困惑し、方向修正を試みる実両親たち。外に連れ出したりスポーツを教えたり、と「健全」な道を示そうとするのだけれど上手くいかず、やがては治療が必要なのではないか…と考える。

両親(=実社会の常識)にとっては『ブリグスビー』は狂った犯罪者の存在そのもので、忘れるべき存在だろう。
しかし、ジェームスにとっては違う。
『ブリグズビー』こそが、彼の世界に対する窓=理解の仕方であり、生きていく武器なのだ。

彼は『ブリグズビー』の映画を外ロケで撮影するのだけれど、これは彼自身の魂を閉鎖された空間から外へ出す(他者からの強制でなく、自分の納得のいく形で)ことに等しく、ロールプレイング的な自己セラピーにも繋がっているのだと考えられる。

そして作品として完成し、世にシェアされることで『ブリグズビー』は自分だけのものではなくなり、観た人々それぞれの中に別のブリグズビーが生まれ、「一人歩き」していく…
ここで初めて、ジェームス自身も生まれ直して次へ向かうことができる。創作物の作者にとっても救いとなるのだ、ということ。

また、この劇中劇『ブリグズビー』が子供向け教育番組(風)であることにも語りの巧さがあって、一般的には成長過程で卒業すべきもの・子供時代に置いてくるべきもの、と取ることもできる。

劇中でジェームスは映画作成の協力者を集めるため色々な人々と出会う。
彼らははじめ困惑や拒絶の表情を浮かべるのだけれどそれもそのはず、あまりに真っ直ぐ情熱を語るジェームスは(つまり『ブリグズビー』は)、彼らがいつの間にか諦めていた夢や、置き去りにした思い出の象徴に見えるからだ。

しかし、ジェームスのこれまで無菌室で育ったがゆえのピュアさに触れて、彼らの態度は解れて行く。やがて彼らは作品の一部となることで、ちょっぴり救われるのである。

そんな『ブリグズビー』の物語には、どうやら生活規範や教育、更には様々なカルチャーからの影響が盛り込まれていて、そこには確かに偽両親の愛情・人生観が詰まっていることがわかる。

もちろん偽両親たちは許されない犯罪者なわけだけれど、その「オカシイ」面こそが『ブリグズビー』を個性的(確かにポップ&ストレンジ&キッチュで中毒性がある)で興味を引く作品にしたのだろうし、結果的にそれが多くの人の胸を打って、ジェームスや仲間たちを救ったのも事実。

作中では偽両親の情報は最低限に留められていて、行動の動機などは意外にもほぼ掘り下げられない。
後半で偽親とジェームスが面会するシーンのやりとりから、これは「あえて」だと思われる。そこに今作の趣旨はないよ、と言っているのだ。

よく著名なアーティストや作家、俳優などがおイタをしたとき、販売自粛やら降板やらの騒動につながり、毎度のように「創作物と作者の人格は切り離して評価すべきか」議論が巻き起こる。

だが、今作に照らして言えばこれはある意味ナンセンスだ。
そんなことは受け手にも、もっと言えば作者にも一概に決められることではない。

世に出た時点で作品は「一人歩き」を始めている。もしその作品に力があれば、きっと自然と誰かの手によって残っていくし、もしそのものが消えてしまったとしても、その影響を受けた誰かが新しい何かを生み出すはず。
それが本当の作品ファーストではなかろうか。大切なのはその道の広がりを一方的に潰さないようにすること…というメッセージとして受け取りたい。

さて、あなたはあなたの『ブリグズビー』をまだ覚えていますか?もしかすると、この作品を通してもう一度出会って握手できる、かも。