YasujiOshiba

霊的ボリシェヴィキのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

霊的ボリシェヴィキ(2017年製作の映画)
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密林レンタル。今気になっているカール・マルクス(1818-1883)。彼は「物神、亡霊、幽霊などという語を、よく冗談めかして使った」と柄谷は記す。たとえば『共産党宣言』の冒頭にある「共産主義という幽霊」という表現。

しかし、それは冗談ではなく本気だったというのが柄谷の近著『力と交換様式』(岩波書店、2022年)の主張のようだ。ぼくはそんな柄谷のマルクスに、スザンナ・ニッキャレッリの『ミス・マルクス』(2020)で近づいていた。末娘のエリノア・マルクス(1855-1898) )が、まさにマルクスの亡霊に取り憑かれながら生きる物語。

霊が「取り憑く」依代とは、まずは人間なのだけれど、人間の類的存在が外化されたところの貨幣や資本もまた、霊の依代になる。こうして霊に取り憑かれた資本は、その霊力によって圧倒的な力を持ち、歴史の前衛に立ちながら、人間の歴史を切り拓き、同時に破壊してゆく。

ボリシェヴィキはロシア語で「多数派」という意味らしいけれど、それは同時にマルクス・レーニン主義としてロシア革命を推し進め、スターリンによって革命が徹底されてゆくなかで、自己崩壊の道を辿ってゆく。

しかし、マルクスの分析の鋭さは、柄谷によるとそれだけではない。むしろ、ソ連というボリシュヴィキ的な共産主義が崩壊し、資本主義が全面化したときに、その霊的な存在はその姿を隠しながら、最大の霊力を発揮するというのだ。

それをマルクス/柄谷は、貨幣のフェティシズムとして説明するのだが、ここでのフェティシズムとは霊的な力のことであり、それは人間の共同体が、他の共同体と接触するとき、交換様式のなかで生じる制御不可能で、それゆえに魔術的で、神的で、運命的な、いわく言い難い力なのだ。

実にじつに、マルクス・レーニン主義的なこの映画は同時に、交換様式Cが全面化してその限界に至り、そこの見えない深淵を覗き込むような映画なのだと思う。

もはや飛ぶしかない。それは命懸けの跳躍。だからこそのホラー。

そういうことなのではないだろうか。
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