あみこがレモンを貪り散らかすものだから、これはAfter『檸檬』(梶井基次郎の)みたいに思えて仕方がなかった。それはただ連想ゲームってわけでもなく、あみこの内側で出口なく攪拌されている世界への拒絶感は、『檸檬』の<私>が抱える「えたいの知れない不吉な塊」と似ているものではなかっただろうか。
あみこの心情や暴走(あるいはこの映画そのもの)は、ある程度年齢を経た自他称大人から見れば「若いねえ」「イタいねえ」で済まされがちなものかもしれない。周りの誰もがつまらなくて、自分だけが聴いている音楽、理解しているこの世界のくだらなさ。
しかし、「自分がこっそり特別でありたい」、いや「特別ではないのかもしれない」と気づいてしまうことの怖さは、10代20代を過ぎてなお誰もが抱えてゆくものではないだろうか。真っ向から向き合って受容、あるいは乗り越えられた人なんてきっとごく僅かであり、多くの誰もがじょうずな「隠し方」を学んだに過ぎないのだ。
あみこは自立できない世界の《俗》っぽさを軽蔑するけれど、彼女もまた自分と「魂の会話」で共鳴した(と信じた)アオミ君にこだわる。《俗》な世界と同じく、彼女も自己の輪郭を他人に頼ってしまうのだ。
アオミ君はなんでも優秀がゆえに、あみことは違ったコースから世界の限界に気付いていて、そこには自分自身も含まれている。でもあみこはそれに気づかない、気づきたくない(ワールドワイドで見ればレディオヘッドのほうがよっぽどサンボマスターよりメジャーなのに)。
あみこがベタな堕落、つまり《俗》にハマったアオミ君に怒るのは、「お前は(も)特別じゃない」と言われたようが気がするからなんだろう。
あみこが齧るレモンは性と強く結びついているけれど、そのとき彼女が妄想するヴィジョンはあまりに《俗》で、滑稽でありつつちょっぴり切ない。
かつて『檸檬』の<私>が丸善に置いてきたひとつのレモンは、爆破のイメージをもって<私>の心を爽快にしたかもしれないけれど、それはひとときのことではなかっただろうか。翌朝、何食わぬ顔で屹立する丸善をみたとき、<私>は再び実体を失いはしないだろうか。あみこがひとつといわず何個レモンを齧ろうと、アオミ君には何も伝わらないのと同じように。
あみこが信じたアオミ君が「居なかった」ことは、反転すれば彼女が見透かした気でいる《俗》な世界にもまだまだ謎で・複雑で・面白い何かや誰かが居る可能性を示す。至れ至れ若気に至れ、『ナミビアの砂漠』に倒れ込む前に。
"Do what you want"(Radiohead『Lotus Flower』)
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マフラーに髪を巻き込んだガールのかわいさ4倍増の法則だけは真理。