ピーター・グリーナウェイという人は、どう考えても(考えなくても)シンメトリー・KITTY・GUYである。
その偏執狂的画面美設計癖はのちの『ZOO』や『数に溺れて』で爆裂するわけだけれど、時間をちょっと遡った今作でもギランギランであり、キャリア初の長編劇映画とされるこの映画が「画家」のお話であったのは彼の運命宣誓のようでもあった。
舞台は17世紀英国、みんな基本的にソフトクリームみてーなヅラの時代、気鋭の画家ネヴィル(A・ヒギンズ)がある貴族の屋敷や庭園を12枚の絵に収める依頼を受ける話。
若く傲慢不遜なネヴィルは依頼主の夫人に一方的な性的奉仕を前提にした契約をふっかけつつ、我が物顔で屋敷の連中に指図しては絵を描いていく。やれ立入禁止だ、やれ石炭の煙を出すな、やれ昨日と同じ服でここに立て…とか。
本来は自然と人の営みによる風景や光景、つまりは「画面」を思うがままにコントロールし切り取ろうとするネヴィルの振る舞いは、映画作りそのもの。彼が製作に用いる何重かの長方形が重なったフレームのような器具(パースペクティブ・フレームというやつ?)は、たびたび画面を複数層に分割して見せ、映画の創り手が覗き込むカメラを想起させるのに十分だ。
しかし、ネヴィルは気付いていない。彼がいるのは、そもそも人為的に意匠を凝らして設計された《庭園》という人工空間の中だということ。
屋敷の主人が不在であるのを良いことにネヴィルがいかに俺様らしく振舞おうと、所詮は鯨の腹の中なのだ。ここに、いかに芸術なる御旗を振りかざしても結局は「階級」の差を越えられない…という英国の基本構造に対する風刺あるいは自虐を見ても良いかもしれない。
ともかくそんなことを示すように、やがてネヴィルは静かな陰謀にその身を搦めとられていく…
そんな今作は、画面作りに留まらずなんと映画自体がシンメトリーだ。
12枚の絵画製作は、マイケル・ナイマンのバロックポップな音楽をブリッジ的に挟みながらカウントアップされていく(『数に溺れて』の前奏がここに。)のだけれど、ちょうど折り返しの6枚まで来た時点で物語にも変調が訪れる。ネヴィルとの契約相手が夫人から娘へと変わり、その力関係も逆転するのだ。
連動するようにネヴィルの運命と絵画も次第に彼のコントロールから離れていき、決定的な事件が起こる。そして終盤に差し掛かると、ネヴィルは13枚目の絵を描こうとして…避けられない結末が彼を迎えることになる。それもそのはず、調和を乱す13枚目は存在が許されなかったのだ。
わたしは以前『ZOO』の稿(※1)で椎名林檎がグリーナウェイを好きなのはよくわかる、ことについて書いたのだけれど、今作からもやはり彼女の作品を思い出す。
椎名林檎のアルバム(2nd『勝訴ストリップ』以降)は並ぶ曲名の文字数がシンメトリー、中心で折り返す構成になっている。まさにこの映画らしいじゃあないか…!ところが惜しいところで(?)、この映画に登場する果実は林檎ではなく柘榴だったのだけれど。
さてそろそろまとめにかかると、今作はなんともブリティッシュいけずが効いた「映画を撮ることの映画」であり、ツンデレめいた点もある映画でもあった。
ネヴィルは「見たものをそのまま描く」と口にし、絵を鑑賞する人が絵画の中に寓意を読み取ろうとすることに懐疑的、あるいは否定的だ。これは作り手=グリーナウェイのスタンスのようでもあり(※2)、もしかするとわたしのような映画の観方自体が彼からしてみれば下手の考え休むに似たり、なのかもしれない。
でもこんな謎めかした映画を作っておきながらそりゃないぜって感じだし、当のネヴィルが辿った顛末を考えれば、必ずしもそれを良しとも思ってなさそうでもある。
「賢くて腕の良い画家、両方にはなれないとでも?」というネヴィルの問いは、ロジックとアートのせめぎ合いというか、作家にまつわる永遠のジレンマにもきこえないだろうか。
しかし、これもまたいけずなことに…今作も含めた彼の映画は、両立不可能に思えたその二極をまさにシンメトリーにして見せてしまっているのだから、敵わない。
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※1:https://filmarks.com/movies/14712/reviews/170634239
※2:「私はプロットやストーリーに興味はありませんが~」
https://eiga.com/news/20240302/4/