ShotaSuchi

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3のShotaSuchiのネタバレレビュー・内容・結末

4.2

このレビューはネタバレを含みます

こいつぁいい映画だぁというのが感想。
思いのほか動物モノなのが若干引っかかったが最高。


ロケットとライラのやり取りで泣いちゃうのはもう反則だと思うので割愛するが、レディオヘッドのクリープでオープニングとかやめてくれ。開始数秒で泣いた。

さて、
ここでは個人的に描き方がめちゃくちゃ白眉だったなあーと感じる離脱組、すなわちピーター、ガモーラ、ネビュラ、ドラックス、マンティスに思いを馳せてみよう。


まずマンティス。イーゴ、その後はピーターと肉親に付き従って生きてきた人生を変える。クリスマス短編からキャラが濃くなり始めて彼女らしさが滲み出してきていた中、最後に自分の人生を自分の足で歩む選択を取る流れは納得的。
心を読み解く力はいつだって最も大切な力だね。

ドラックス。彼はすっかりおバカになってしまったが、妻と娘をサノスの手下のアイツ(GoG1のヴィラン)に殺された怒りに打ち震えた狂戦士で、何より娘を心から愛する父であったことを忘れてた(ドラックスのギャグが面白すぎてな)
アルビノのような女の子の実験体と心を通わせるコミュニケーションは言語力云々ではなく彼の「ユーモア溢れる普通のお父さん」を表現した、映画の中でも最も感動的なシーンのひとつ。

ネビュラ。
いつだってクールな彼女。サノスに虐待され続けたサイボーグという設定を忘れるくらいともに旅をした仲間。だけど彼女はいつも呆れたり、怒ったりしてチームとコミュニケーションを取っていた。解決思考型なので呆れるのは尤もなことだ。
ただガーディアンズって呆れちゃうような奴らでネビュラはそこに一線を画してきていた。
本作ではともに笑い、ともに踊る。一線ひいてクールに眺めない。一緒にバカになって騒ぐんだ。
解決思考型の残虐性満載のサイボーグが、バカな時間を仲間と過ごせるようになったんだ。心のトラウマは深いかもしれないけど、ガーディアンズの面々が彼女を癒していったんだと思う。

そしてガモーラとピーターだ。
ガモーラは結局惚れ直さない。まるで別れた元カノが少しだけご褒美をくれる瞬間のように「きっと楽しかったんでしょうね」的な言葉を残して去るだけ。
めちゃくちゃ秀逸だなーと思ったのは、ガモーラがピーターとピーターの家族を写真を見つけるんだよね。
「あなたの愛する人、いるじゃない」とガモーラがピーターに諭さんばかりに。

結局ガモーラもピーターもそれぞれの「家」に戻る。

ピーターの最愛の人が、ピーターに本当に大切なこと、つまり目の前の恋焦がれる相手を欲するばかりでなく、もっと包括的な愛があることを思い出させる構造はある意味では残酷だ。目の前の好きな人を追いかけたいじゃない。

「でももしかして、それって逃避なんじゃない?」とは言ってないがガモーラはそんなことを言いそうだ。

仮にもガモーラがまたピーターに惚れ直したらピーターたちは延々と宇宙を放浪する守護者だ。それはそれでまあOKなんだろうけど、ヨンドゥと旅して以降、地球のことは見ない振りをし続けたピーターがそのまま見ない振りをし続けて宇宙を彷徨う姿になるのはかっこよくない。
見ない振りをしてても地球の音楽は欠かさない。どこかで繋がってたいのだ。

だから音楽プレーヤーは最後にロケットに託される。
ピーターをギリギリ地球と繋ぎ止めていた象徴は、地球に戻るいま必要ない。
逆に新生ガーディアンズとピーターにとって繋がりの象徴が音楽プレーヤーであり、様々なロックバンドと音楽で互いを想い続けることができるんだと思う。


本来の自分の良さを出すこと。自分の弱さと対峙すること。自分の足で立って前に進むこと。家に帰って大切な人と過ごすこと。

全部が詰まった最高の映画。
ShotaSuchi

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