【見せたくて見せたくない話】
『ザ・プレイス 運命の交差点』観ました。
ワンシチュエーションで繰り広げられるイタリア映画。
その舞台はカフェ『ザ・プレイス』。
一番奥の席には主人公の謎の男が座っている。
男のもとには「願望」を叶えたい、そのために「代償」を払わなければならない、人生に迷う者たちが訪ねてくる。
焦点が当てられる9人の相談者それぞれのストーリーに錯乱するのでは.....
と心配していたが、それらは半分意図して、そして半分は意図せず、連立方程式のような魅惑的な絡み方をみせてくれる。
むしろ、混乱させられたのは「欲望」そのもののほうだった。
“~になりたい”
“~したい”
明確なはずだった。
だって、そのために無理難題を課せられるのだから。と同時に、他人の運命を背負うのだから。
だけど、「欲望」を掘り下げると想像もし得なかった自分の「感情」と出会ってしまう。それは、ときには他人の運命よりも残酷な「代償」なのかもしれない。
「人の何を見ているの?」
「全てだ」
「短所を見つけるの? それとも長所?」
「意外な面かな」
謎の男とカフェの店員とのこんなやり取りにすべてが凝縮されていた。
私たちが夢を見るとき、あるいは願いを語るとき、本心と向き合っているようで、実は黙らせておきたい「感情」に口封じをする行為にすぎない。
あんなに見たかった夢は、あんなに叶えたかった願いは、一番覗きたくない自分でもあったのだ。
ベールをまとった「感情」は誰にも触れさせない分厚いメモ帳のようだ。
なのに、ひとたびページを開けばそのベールは容易く燃え尽きてしまう一枚の紙切れのように儚く、人間はあまりにも脆い。
これは悲劇なのか。喜劇なのか。
謎の男は救世主なのか。悪魔なのか。
決して自分を語らない彼がわずかに口角を上げたとき、その微笑みの意味は最後まで本編を観た者にしかわからない。
将来の「夢」を見る者が、今の「幸せ」を疎かにしませんように。
どうか彼らの「願い」が、「本心」に生まれ変わりますように。
映画を見つめた私のそんな「欲望」は、コーヒーの香りのように空中を漂い、そして静かに消えていった。