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ネッド・ライフルのotomisanのレビュー・感想・評価

ネッド・ライフル(2014年製作の映画)
4.1
 "Run"―― 七つの世紀を股に架けた「悪魔」の最期の言葉である。息子に宛てたというより、危機千発な生涯から漏れた本能の声だろう。
 "No"―― そんな親父の最後の無茶に返した?それだけではないだろう、親父全否定を込めて、拳銃2丁がこっちを向いてるのに馬鹿を言うなと告げている。
 それに頷き返すようにして息を引き取るヘンリーが ―― こいつは地に足が付いてるのか ―― と今わの際感じたなら、こんな信心息子でも少しは頼もしさを覚えただろうか?

 そんなヘンリーにおいて「地に足が付く」とはどんな事かと言えば、ヘンリー的には大成功、米国的、またあるいはイスラム思想的にも大失敗なジャラール・カーン・プロジェクトのような事だろう。
 対ソ戦争末期のアフガンで、箸にも棒にもかからないと思われていたジャラールに才能を認め、宗教指導者、軍司令官に仕立て上げた工作である。それが20年後、外に向かってジャラールは民主化を拒む大テロリストの烙印付きだが、アフガニスタンの風土と社会にはどうやら最適の勢力者である。そんなキングメーカーな生き方がスパイとしてのヘンリーの真骨頂なのである。
 それに対して、サイモンはきっとヘンリーから受けた薫陶そのままな衝撃的詩人なんだろうが、ヘンリーのお眼鏡には叶わない流転にある。しかし、当時のヘンリーからして転落の涯の全壊状態、ヘンリーに掘り出されネット世論に磨かれた文豪はもうヘンリーには離反の大衆王、愚者の王にしか感じられないだろう。
 フェイとて、いわば腐れ縁。不幸を願う事こそあるまいが、イスタンブールの波止場から発つ船上でフェイの姿を遠く求めたのは肌懐かしさのようなものがこんな男の胸底にもあったのかもしれないが、悪魔な本能が告げる"Run"の声には勝てなかったのだ。
 まして、その倅のネッドに至っては小悪魔の情さえ覚えまい。しかし、ヘンリーは死んでも気づかぬ事だが、殺人容疑を躱すため逃亡を図るきっかけとなったのは、そのネッドがサイモンの元に駆け込んだ事が発端である。
 サイモンと偽って米国を脱する駐機場で一瞬ヘンリーが早足を留めたとき、誰かの事が頭を過ぎり後を振り返ったのかも知れない。いわばその一瞬を手掛かりに、続くフェイの物語、そしてネッドの物語に連れて来られ、また裏切られる事を我々は見越しているのである。そうあれと促す事こそ悪魔の仕業であると我々もまた知っている。

 大体自らを「悪魔」と呼ばせるのは、世間を欺く隠れ蓑、きちがいのフリも半分ながら、きっと気に入っての事。
 ペルーの政変で精神半壊となり、もとより人を人とも思わぬ書痴で、だから、政治の裏側で働くエージェントも務まったし、専横な原理主義の指導者を育てる事もできたのだろう。
 きちがいの悪魔だから生まれは1591年。「1951」のアナグラムとみる以上に、我は近代人、神なんぞ拠り所とせず、世界とヒトを俯瞰して来た精神年齢に由来した生年であろう。こんな人間であるから、聖人もどきな息子ネッドとはデカルトさんとパスカルくんの隔たりを覚えるのも当然だ。

 そんな出来損ない倅がフェイかサイモンの名代のようにやって来て自伝を書くからNYCに来いと言う。フェイにはライターが付いていてなんとそれが、近代人ヘンリー躓きの第2の石(第1はペルー)、かつて13歳のブサイク娘だったスーザンだと言う。きちがい扱いをされようとヘンリー一途を掲げて取り下げず、思慕極まって本当にこころを病んでしまう。これをヘンリーは、地べたを這って狂気の無残さをよく知ったほぼ全壊人ヘンリーは、あの夜の続きをと喜ぶべきか、危険な同病として相憐れむ?それとも吉凶紙一重の脅威とすべきか。
 そのスーザンもまたヘンリーに触れて「化け」と不幸を背負い込んだ口である。かつて互いに人生を壊し合ったふたりが今また、サイモン論を契機に再接続。これで、ヘンリーの仕込みで辛口評論の女王が生まれれば、サイモン、フェイと併せて師ヘンリー論の三位一体が完成というわけだ。
 しかし奇妙なのはヘンリーが書いたものと言えば暗号化された「告白」を除けば学界の南極ペルーでの少壮学者としての論文程度に過ぎまい。では、スーザンはサイモンの作品からヘンリーのなにを読み解き、13歳、同衾の夜々のおこないで彩って賛美するのだろう。芯が空洞のヘンリー賛美世界が根も葉もないヘンリーを基盤に立ち上がる事の危なっかしさなど20年の隔たりで壊れてやっと再会してとち狂ったふたりは気付きもすまい。そしてこんな幸福な妄想があった事をもう誰も知る事はない。

 その妄りさを先に気付くのもヘンリーである。ついでに同じ事にやがて気付くスーザンを恐れて逃げ出すのだ。人として狂っても悪魔は狂う事を知らない。悪いが故に何でも捨てられるし何時でも拾いに戻れる。ただ、戻れるのは相手に受け入れる余地が多分にある事を知っていればこそである。その余地こそ、スーザンに学識と論理性、辛辣さが移植された場所であり、サイモンの詩才が開花しヘンリーへの幻滅から放棄した廃墟であり、フェイやビビに何だか分からない感情を培わせきっと今も埋火を宿してるかまどである。スーザンが戻るにふさわしい場所であるとは到底思えないのだが、もうひとつのアソコばかりは悪魔の冷徹さをも乱すのかもしれない。
 悪魔が堕落したような代物でもヘンリーが人間であるのは、特定の彼らにそのような場所を押し開けてやれる素質があるからだろう。しかし、その相手の特定は悪魔の嗅覚が然らしめるものであり、同じような悪魔的なジャラールでなければその成果を当人も十分に活かせない。つまり、みな多くの不幸も同時にかこつ事になるのだ。スーザンもその一人としてヘンリーに止めを刺す不幸を負いに来て、そして、迷いなく後を追い不幸を自ら断ち切るのだ。

 ヘンリーという姿で幸も不幸も一度にやってくる。押しかけられた方は成すところを取り違え、自分の矛盾や混乱に打ちのめされ戸惑い疑い必ずヘマな事、口より手の方が早い、有り金全て悪党スーザンに放ってやったり、スーザンもまた銃口に引き金なんて事を仕出かす。
 そんな、危険なスーザンとヘンリーが瑕モノの巨人サイモンとフェイの元へ向かうからもういけない。世界は4人の重みに歪んで警察も悪運も転げ寄って来る。
 ヘンリーに与えられた最期には殺されるべき父王の姿が重なるが、ネッドはその相手役を妖婦スーザンを一蹴したのと同じく拒み、"Run"の唆しを死すべき悪魔の最後の本意、悪意と半ば受け取っただろう。そして、もう半ば、父としてあらゆる責任から逃れ続けた男の赤の他人のような生き方の根本、あるいはそれがヒトの本性の一部かも知れない。愛の元にいかに結ばれようともいつか一人を目指すように自分が思えてくるとも感じ取ったかも知れない。
 というよりも、言葉の示すところは経験に照らしてみれば多様で"Run"のひと言にも「ここから、何から」とも「どこへ、いつ」とも如何様にも受け取り方と答えがある。あとはそれをヘンリーの中の何者が発したか、悪魔なら悪魔の本意で、父なら父の本意でと汲み取れる限り様々な意味を探る事がネッドの営みになってゆくのだろう。そしていつか、ヘンリーを余所に自分から走り出す事が求められる。そのための下地はヘンリーとスーザンがたんまり用意してくれたのだから。

 すれっからしたような話、間もなく保護観察中?あるいは獄中だろうか、ネッドの元に200万ドルのオファーが届いて「自伝」を書けよと言って来るだろう。そして、サイモン、フェイ、ネッドの類い稀な一家の怪しげな男、伝説のヘンリーにまつわる噂の三部作のうわさで賑わう事になる。
 それが本当に世に現れるのかよりも、伝聞の末にふくらんだヘンリー像が二度と世間の土を踏まないフェイ、ネット内に雲隠れのサイモン、そして本当に消息を絶つかもしれないネッドの三人、誰も姿を見ることができない彼らを皆想像し、彼らが実は陰謀論的に死んでいないヘンリーやスーザンと今も接触し謎めいた創作を企てていると語り合うようになる。現に二人の死亡を誰が確認した?
 それを打ち消す人々がヘンリーの墓を建立するなら、ひとつだけ誤りをおかせばいいと思う。それは生年1591年である。
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