イ・チャンドン監督現時点での最新作は、これまでにないじっとりとした雰囲気や不気味な劇伴が効いた不安感がつのる作品。まさかイ・チャンドン作品で黒沢清、濱口龍介的な映像体験をするとは思ってもみなかった。
演出上必須となる、日常人物描写に忍ばせる毒性の表現などは非常に若々しい。ここにきて新境地を発揮するだけでも素晴らしいのに、そのサスペンスはジャンル映画としてのケレン味的演出にはもちろんとどまらず、コンセプト及びメッセージに沿ったものとなっているのには舌を巻く。
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今作で監督が炙り出す不条理は現代の若者世代にすら蔓延する経済格差。持たざる者である主人公ジョンスと彼が恋する借金まみれの女性ヘミの前に唐突に現れたのは、若くして「仕事と趣味の区別がない」と言い切れるブルジョワジーのベン。
ジョンスとしては卑屈になる一方で、このままではヘミを奪われるだけ。序盤は嫉妬心全開だったが、段々と交友関係も含めたベンの生態を訝しく感じるようになる。
その象徴的なシーンがベンを中心としたポピュリッチ仲間の飲み会。会話の中心となりまんざらでもなく饒舌なヘミの様子を「興味深そうに」「観察する」富裕層達。それらに対してのジョンスの拒絶はかなり共感してしまう。
極めつけは、ベンの「無用なものは消え去るべき」といった選民排他的な思想とも受け取れる「ある癖」。ちょうどそれが発覚したタイミングでのへミの失踪に、ある疑いが止まらなくなる。
ヘミからの電話から聞こえる不穏な音には良からぬ想像がふくらみ、まるで消費されるかのように新たに現れる饒舌な女性にデジャブを感じ、ピンク色のスポーツウォッチや猫の名前を当ててしまったことで確信にかわる。それはジョンスも鑑賞者も。
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監督作品のこれまでにおける不穏分子は露悪的なキャラクターが多かったが今作のベンはだいぶ違う。パッと見は社会性も高く、礼儀も正しく、物書きとしての主人公へのリスペクトにも似た態度すら見せてくる。
ただそれが本心でないことだけはなんとなくわかる。にこやかだが目は笑っておらず、様々な所作に違和感が漂う。
「空港からの車中における母親との電話の嘘臭さ」
「涙を流したことがない、とか言っちゃう感じ」
「ヘミと対面だったのにジョンスがきたら隣に移る」
「"興味深い"として誘った庶民の話を聞いて大あくび」
「ジョンスの地元で流れる北朝鮮の対南放送を"面白いな"と発言」
このあたりの細かすぎる嫌悪感を滲み出す監督の演出とベンを演じたスティーヴン・ユァンがうますぎて、下手に露悪的なキャラよりもアレルギーが出てしまう。
となると、どうにもジョンスに気持ちが肩入れしてしまい「格差における不条理によって、暴走してしまった悲劇」とジョンスの加害性を少しだけ許容してしまいそうになる。
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しかし、冷静になるとどこかおかしい。というか物語自体も「ベンがやってしまっていたのか」「成金にありがちな俗物だったのか」は明示してくれない。事件性への証拠は間接的だし、嫌悪感に関しては最初からそこに繋げるつもりで態度を享受してしまった気もする。(個人的には「ないことを忘れる」という序盤の印象的な台詞はここにかかっているように感じた)
となると、ベンの立場的には格差が招いた言われなき誤解とも受け止めることができてしまう。
ジョンスを「信頼できない語り手」としつつ、そこに観客を全乗っかりさせる演出を徹底させておきながら、待ち構えているのは理不尽な暴力。観客は否応なく無意識な肩入れを自戒する。
「経済格差の不条理」は「持たざる者の悲哀」だけでなく「富裕層の誤解」という双方向に存在する、そんな構造そのものへの批判に繋げたのだとしたら末恐ろしいが、イ・チャンドン監督ならやりかねない。
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様々に登場する妄想を思わせるシークエンスだったり、「あるシーン以降はジョンスの創作か?」といったカットだったり、数々の考察を許容する余白もたくさんあって正直まだ消化しきれていない。
個人的に初見では全て現実の出来事と受け止めたが、あまりに複層的すぎておそらくぴたっとはまる答えなんてない。
ただそれも投げっぱなしというわけではなく「ある視点で見たものだけが全てではないんだよ」といったそもそも根底にあるメッセージの表れなような気もする。