映画漬廃人伊波興一

モンパルナスの灯の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

モンパルナスの灯(1958年製作の映画)
4.6
名作故だからなどではなく、ベッケル故だからに他ならない。
ジャック・ベッケル 『モンパルナスの灯』

どのタイトルもが刺激的でありながらも、ただ悠長に構えているだけではなかなか巡り会ぬフィルモグラフィなるものが存在します。

実際、無限に(媚び)という花を咲かせ続けるのではないか、という錯覚を与えながら映画史の岸辺を彩る(名作)など、わざわざ足を止めてしげしげ観る事もありません。

ですが相手がジャック・ベッケルとなれば切羽詰まった事態を目撃したかのように立ちすくんでしまいます。

その機会を逃せば、次はいつ、いやもしかするとこれが最後の巡り会いとなるかもしれないのですから。
あの名批評家・上野昂志さんをして「赤い手のグッピー」「幸福の設計」に触れる際、(やっとベッケル兄さんに巡り会えた)と言わしめたのです。

その名前が消えたらフランス映画史の輝きが一気に窄んでしまうような、ベッケルのフィルモグラフィがなぜ、私たち観客の鑑賞行脚の中に堂々とそびえ立たないのか?
ベッケル作品が難解で前衛的なのか?
映画史から湧き出る水がすっかり濁ってベッケルの匂い、色を呑み込んでしまったのか?
まさか、そんな事もありますまい
濁っていたのは映画史ではなく、他ならぬ私たち観客の目だったようです。

誰しもにも必ずあったに違いない、映画に対する目がまだまだ澄んでいた頃、少なくとも絵葉書の(花)と画面の(華)の区別がつく者なら、普段さほど映画など観なくたってジェラール・フィリップとアヌーク・エーメが何のためらいもなく互いに魅入られたように、ベッケル的な匂い、色には敏感になれる筈。

今なお、毎年世界のどこかでベッケルの新品種のような作品が出現し、堂々とその旨を表示するようなオマージュも存在するにも関わらず、そのことに気づかぬ映画好きが案外多いのは、所柄も弁(わきま)えず、大仕掛けと説法のような露悪趣味を悦び、薄弱な論拠に縋(すが)り、早急な話・耳寄りな話に飛びつき、不得要領な応答しか出来なくなってきている、という、全ては反映画な所作の悪循環に陥っていたからではないか?

実際、要約すれば、才能ある芸術家ジェラール・フィリップが自分の名声を知ることなく、アヌーク・エーメとの幸福を成就することなく、夭折していくという絵に描いたようなメロドラマですが、死に際に二人が手を握りしめ合う場面があるわけでももなく、ジェラール・フィリップが独り孤独にアヌーク・エーメへの想いを口にすることもなく、彼の貌のアップさえなしにあっさり逝ってしまう。
しかもその主人公が死んだと分かれば悪徳画商・リノ・ヴァンチュラが画面の主導権をかすめ取ったかのように活気を帯びてくるあたりの印象はメロドラマとしては挑発的なくらい不自然です。

そんな不自然さは、この「モンパルナスの灯」の叙情性だけではなく、遺作「穴」の活劇性にもありました。

不自然さを充分に自覚しながらも映画だけでしか味わえぬ不思議な余韻。

そんな倒錯性こそ、(名作)故だからなどではなく、ベッケル故だから、に他ならないのです。