透視図の消失点が中心に据えられたその構図。アーサーの背骨は奇妙に捩れて時に喘ぎながら天を仰ぎ見るけれど、そこに手を差し伸べるものはただの一つもない。そこへの階段を、彼は笑いという絶望と一緒に降りていく。車の窓から助け出されるその姿は背負わされたものからの堕ちた解放に見える。まぼろし。
誰でもあり誰でもない。
街の時代性やあの何者かわからない得体の知れない不穏さが漂っている空気感は「タクシー・ドライバー」のそれを思わせるけれど、カメラワークはあれは「シャイニング」で、あの部屋を思わせる。部屋のアールのついた枠組み。母親の風貌。
小さな窓のクリント・イーストウッド。なぜそこだけがニュース映像じゃないのです?アメリカのテレ東?