川田章吾

ジョーカーの川田章吾のレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.6
役者の底力と監督の演出が光る作品。
テーマ性は少しダイレクト過ぎるから、好きじゃないけど、これが流行ってしまうというのは、「社会の分断・階級間のディスコミュニケーション」が相当深くなってしまっていることを象徴している。

ディスコミュニケーションを描いた作品の代表作にカミュの『変身』がある。
主人公のグレゴール・ザムザは、ある日目が覚めると「毒虫」になっていた。理解してもらおうとしても、家族から疎まれ、最終的には死んでしまう。そう、ストーリーラインを合わせると、オチを除けば、今回のジョーカーそのものといえる。 
ただ、今回のジョーカーは、この「毒虫」になっているのが、「この社会に虐げられている者たち」なのがポイントだ。

昨今、日本の社会では、「れいわ新選組」「N国」がブームを起こした。知的エリート達は、彼らをポピュリストだと批判したが、彼らはそれを意に返さない。
むしろポピュリストという批判に対しては、「ポピュリストですが何か?」と切り返す。
知的エリートは、なぜ、こうしたブームが起きているのか理解できない。というより理解しようとしない。

今回のジョーカーでも富豪のトーマス・ウェインは、貧しく犯罪に手を染める人たちを「ピエロ」と批判したが、それを逆手にとり彼らは、ピエロの仮面を被り暴動を起こす。
しかし、彼らの真意を理解しようとしないトーマス・ウェイン達は、彼らの求めていることとは別の施しをしようとする。
まさに、これこそが最低のジョークであり、そうした悲劇を笑いに変えようとするのがジョーカーという存在なのである。
というか、悲劇こそが喜劇であり、私たち自身辛い時こそ笑いたくなることも多々あるだろう。

その証拠に、劇中、チャプリンの名作『モダンタイムズ』が流れているが、この作品も現代社会の悲劇を笑いに変えたものだ。
しかし、それを上流階級の人々は、自分たちに向けられた批判だとわからずに、ただ笑っているところが最低のジョークなのである。
※ただ、2回目に見て分かったことなのだが、アーサーに都合の良い部分はすべてアーサーの妄想とは断言できない。実際に、アーサーの母ペニーとトーマス・ウェインに関係があったことを匂わせるシーンが劇中に描かれている。ということは、ペニーとトーマスの関係は、自らの社会的地位を守るために、上流階級がペニーやアーサーの人生を踏みにじる隠蔽をした可能性がある。

つまり、ジョーカーは、ただのサイコキラーではない。むしろ、「この社会に虐げられている者たち」の象徴であり、彼らを理解しようとしなければ、このイタチごっこは永遠に続く。
ラストシーンの犯罪からの追いかけっこは、これから始まるバットマンとジョーカーの対決を暗示しているのだ。

ただ、これはしょーがないのだが、今回のジョーカーは怖くない。
なぜなら、今回の作品はジョーカーの動機を描くために、彼をサイコキラーとしてではなく、普通の人間が社会に破壊されていく描写を描いているためだ。これではジョーカーに人間味が増してしまい、「得体の知れない恐怖」が吹き飛んでしまう。

切り込み方が違うからしょうがないのだけど、やっぱりダークナイトのジョーカーは、「神がかってた」というのは譲れない。でも、主役のホアキン・フェニックスさん。あんたの演技は、良い意味で気持ち悪かったよ!

まだまだ、語り尽くせないけど、長過ぎるのでここまで。お疲れ様でした。
川田章吾

川田章吾