よしおスタンダード

ジョーカーのよしおスタンダードのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

※自分で自分に問いかける自問自答形式のレビューです。

Q. この映画が作られた経緯は?

A. トッド・フィリップス監督は「21世紀の現代に、アメリカン・ニューシネマ(以下ANCと省略)を撮りたかった」と言っています。

ANCとは簡単に言えば、1960~70年代、ベトナム戦争などを社会的背景として、反権力・反体制的な作風の映画のことで、過激な暴力・性描写などが含まれていることが一つの特徴です。

ANCの代表作には、

『俺たちに明日はない(1967)』
『明日に向って撃て!(1969)』
『イージー・ライダー(1969)』
『時計じかけのオレンジ(1971)』 などがあります。

Q. なぜ監督はこの今の世に、ANCを撮りたいと思ったのでしょうか。

A. ANCは、社会の不条理や政府への失望感、経済格差などに苦しむ「怒れる若者たち」がその怒りを表明する映画、とも言えます。その社会的弱者たちが抱える怒りの質は、ANCの時代から40年経った今でも変わっていません。

フィリップス監督は本作に関して政治的なコメントはしていませんが、あえて今、正面から「怒れる弱者たち」の声なき声を映画を通して提示しようとしたのではないでしょうか。あるいは「警告」とも取れます。

Q. 確かに本作に限らず、世界的に「社会的弱者をテーマにした」映画が公開され続けているような気がします。

A. イギリスの社会派の巨匠ケン・ローチ監督は一貫してこのテーマで撮り続けています。『わたしは、ダニエル・ブレイク(2016)』では、システマティックで融通の効かない行政への怒りを痛烈に表出しています。

また最近見た邦画の中から取り上げると
『恋人たち(2015年・橋口亮輔監督)』
『ぼっちゃん(2012年・大森立嗣監督)』
『すばらしき世界(2020年・西川美和監督)』

なども、主人公たちは何らかの社会的抑圧や差別に苦しんでおり、広い意味ではこのテーマに当たるでしょう。

Q. 『ジョーカー』には「本人が意図していないのに、おこなった悪事とその結果が、反権力の象徴として祭り上げられていく」というテーマも含まれています。

A. このテーマも過去作でいくつか取り上げられています。「狼よさらば(1974年)」「狼たちの午後(1975年)」「俺たちに明日はない」などが有名でしょう。

「カッコーの巣の上で」ではジャック・ニコルソン扮するマクマーフィーが、精神病院内での人間としての自由を勝ち取るため、ルイーズ・フレッチャー演ずる絶対権力者の婦長と闘い、他の患者たちから一目置かれるようになります。


Q. アーサー・フレックがコメディアン志望である、というのはどういう意味があるのでしょうか。

A. アニメ「バットマン:キリング・ジョーク(2016年)」でも、ジョーカーは挫折したコメディアンとして描かれています。「キング・オブ・コメディ」のルパート・パプキンもコメディアンとして売れることを夢見ていますが、うまくいかずに大物コメディアンのラングフォードを誘拐してしまいます。

アーサー・フレックも結局コメディアンとして大成することはできないわけですが、パプキンとアーサーには共通点があります。「自分が売れないのは自分の芸に問題があるからではなく、自分を認めない周りが悪い、環境が悪い」と考えていることです。

このような性格が、アーサーを悲劇へと転落させてしまった一要因と考えると、最初はコメディアンを目指していたのに、結果、ヴィランになってしまった、という「何が喜劇で、何が悲劇か」「何が善で何が悪か」というテーマを炙り出すことにも、成功しているのではないでしょうか。

ちなみに「キング・オブ・コメディ」の中で、何度ラングフォードのオフィスへ通っても本人に会わせてもらえず、業を煮やしたパプキンがオフィスの奥へ勝手に入っていくシーンがあります。すると、パプキンが警備員に追い回されて画面の奥で右往左往します。まさに「ジョーカー」のラストカットと全く同じ構図です。

Q. 「タクシードライバー」からの影響は?

A. デ・ニーロ演じるトラビスも、アーサーと同じく生活に不安を抱え、収入も安定していません。ベトナム戦争へ従軍していた影響から不眠症になり、タクシー運転手という職業を選択するわけです。また、トラビスは日記を、アーサーはネタ帳のようなものを毎日つけています。思考を言語化しアウトプットする行為は、自らの感情を整理・客観視し、経験として定着させる意味合いがあります。

トラビス、アーサー両者とも「書く」という行為が、自分の思い通りに渡っていけない不合理な世間との折り合いをつけるための重要な儀式であった、と考えることもできます。

Q. 映画評論家の町山智浩さんは、1928年のサイレント映画「笑う男」の影響を論じています。

A. 私もこの映画は見ました。「笑う男」の主人公、グィンプレーンのメイクと表情は「ジョーカー」のモデルになったとされています。

原作のあらすじはちょっと複雑なので省略しますが、グィンプレーンはある王様の謀略によって、子供の時に顔を強制的に「整形」され、常に笑っている表情にさせられてしまいます。おかしくなくても笑顔、怒っていても笑顔、実に哀しい物語です。グィンプレーンが笑えば笑うほど哀しい表情になるのは、まさにアーサー・フレックそのものではありませんか。

このグィンプレーンは、最後、叫びました。

「A King made me a clown. But first, God made me a man!」(王は私を道化師にした。しかし初めは、神が私を人間にしたのだ!)

そうなのです、今、我々がどんな職業や立場や境遇であれ、それは「何かの外因がそうさせた」のです。その前に、本源的に、私たちは、「人」として生を受けたのです。それ以上でもそれ以下でもない。スタートは「人」なのです。アーサー・フレックも生まれた時からジョーカーだったわけではもちろんなく、「人」として生を受けた、この点こそが重要で、すなわち「ジョーカー」は「アーサー・フレックという一人の人間」の物語なのです。

また、この映画はヴィクトル・ユゴーの「笑ふ人」という小説が原作です。私も借りて読みましたが、残念ながら読みやすい翻訳がなく、かなり古い翻訳版しかなかったため、相当苦戦しましたが、何とか半分まで読みました。

その中に、次のような記述があります。
『(ウルズスは)グヰンプレーンを見て、呟いた――「半分怪物、半分神」』
『彼は自らに呪詛と、祝福とをもっていた。彼は選ばれた者で、呪われた』

何となく、アーサーにも通ずるような記述です。善(神)と悪(怪物)は紙一重、いや、そうやって善悪を分けているのは人間の勝手にすぎない、と。

Q. 音楽について特筆すべき点はありますか?

A. 作曲を担当しているのはヒルドゥル・グーナドッティルという、アイスランド出身の女性ミュージシャンです。本作では弦楽器主体のどこまでも陰鬱な響きの曲が強烈な印象を残しています。

ちなみに彼女の師匠は、同じアイスランド人の作曲家ヨハン・ヨハンソン。「博士と彼女のセオリー(2014)」「ボーダーライン(2015)」で2度のアカデミー作曲賞候補に挙がり、「博士と彼女のセオリー」ではゴールデン・グローブ賞を受賞していますが、2018年に48歳で亡くなりました。

その弟子のヒルドゥルが本作でアカデミー作曲賞を受賞したことは、亡き師への最上級の贈り物となったのではないでしょうか。

また、フィリップス監督は「この映画で使われている曲は、アーサー/ジョーカーの頭の中に流れているもの」との重要な発言をしています。

もし、この「曲」の中に「歌」も含まれているのだとすれば、チャップリンが曲を付けた「Smile」や、フランク・シナトラの「That's Life」、そしてクリームの「White Room」などは、歌のかかるタイミングなども非常に重要な意味を持つことになります。

このタイミングや、それぞれの意味については私は精査していませんので、気になる方は他の方のレビューなどを参考になさってください。

その上で2つ思ったことがあります。
1点目は、アーサー/ジョーカーのダンスシーンで、使われている曲が違うということ。

地下鉄で3人を射殺したアーサー(この時はまだ「ジョーカー」ではない)は、トイレでダンスしますが、この時流れているのはヒルドゥルの重苦しい曲。

ところが、終盤、階段を降りながらジョーカーがダンスしているシーンでは、ゲイリー・グリッターの「Rock ‘n’ Roll (Part 2)」がかかります。こっちは打って変わってアップテンポなロックです。

しかもゲイリー・グリッターはかなりいわくつきの人物。なんせ児童性的虐待の罪で逮捕されていますから、アーサーの転落していくさまと、グリッターの転落とがリンクしちゃってるという、何とも凝った演出。ですから、この曲を使うのは監督も勇気がいったはずで、明らかに何らかの強い意図を感じます。

ですから、アーサーの時には重苦しい曲で、ジョーカーになってからは陽気なロックが頭の中で流れている、というのも納得です。

2点目は、「White Room」の使い方。この曲が流れるのは、ジョーカーが暴動の起こっている夜のゴッサムシティを移動している時です。

このシーンの後、ジョーカーはアーサーに戻り、まさに「White Room=白い部屋」の中で精神科医に話をしているラストへとつながります。

これが何を意味するのか。ここまで長い時間をかけて紡がれてきた「ジョーカー」の物語は、全部「白い部屋」の中でのアーサーのおしゃべりに過ぎなかったのか、または逆で、アーサーがジョーカーになった物語は全部真実で、だからジョーカーは「白い部屋」に送り込まれたのか。

ヒントはこの曲の歌詞にあるのでしょうが、私には難しくて解釈しきれません。ただ、「孤独」「影」や「解放」という言葉が歌詞の中に何度も出てくるのは非常に示唆的です。

いずれにせよ、この歌の使われ方と解釈の仕方で、アーサーの最後のセリフ「面白いジョークを思いついた。けど、君には理解できない」の意味が変わってくるでしょう。

全部解釈しちゃっても面白くないので、あえてラストのこのセリフの解釈だけは言わないことにしますね。

Q. これまでコメディー映画主体だったフィリップス監督が、今作のような重いテーマの映画を撮ったことは驚きだという声が多いですが。

A. 私も現在レンタルや配信で見ることができるフィリップス監督作はすべて見ました。この監督のキャリアのスタートは「全身ハードコア GGアリン」という、伝説の破天荒ミュージシャンを追ったドキュメンタリーです。そのあとからコメディー路線になります。

しかし、それらコメディーでも、大体登場人物の中に「社会的弱者」や「落ちこぼれ」のような人が出てきます。「恋愛負け組」だったり「アルコール依存症」だったり。GGアリンだって完全に一般世間の感覚からは隔絶した人間です。

その究極が「ハングオーバー」シリーズのマスコット的キャラクターのアランでしょう。彼は簡潔にいえば「社会生活不適合者」です。こんな人が自分の周りにいたら私は嫌ですね(笑)。でも、フィリップス監督は、こんな「どうしようもないクズキャラ」も、実に愛らしく、人間味あふれるキャラクターとして描いています。

その徹底した描き方は「え? アランみたいな奴は、君が意識してないだけで、世の中には山ほどいるよ。別にアランが君に対して害をなしてるわけでもないのに、アランはクズだとか、頭がおかしいとか、とやかく言われたくないね。アランみたいな人間を受け入れられない君の方がどうかしてるんじゃないのか?」と言われているようで、非寛容な世の中への痛烈な皮肉と受け止めました。

そして私はアランは「アーサー・フレックが反転したポジティブ版」なんじゃないかと思いました。

結論として、フィリップス監督が扱ってきたテーマは一貫していて、今まではそれをコメディーの土台で描き、「ジョーカー」ではシリアスなドラマの土台で描き直しただけに過ぎないのです。

しかも、「ジョーカー」の中にも、コメディータッチなシーンや描写はいくつも見られます。あまりにも重い雰囲気の映画のため、気づかない場合もあるかもしれません。

ある意味ではとても作るのが難しく、なかなか評価もされにくいコメディー映画で鍛えてきたフィリップス監督。そんな彼の真骨頂だなぁと私が一番、笑ってしまったジョークが、アーサーのピエロ仲間2人が部屋に訪ねてきたシーン。

拳銃を渡された元同僚の一人を殺害し、もう一人の小人の彼はアーサーの善意から逃げようとしますが、背が低すぎてドアノブに手が届かない。こんなブラックジョークがあるでしょうか。私は笑いをこらえながら鳥肌が止まりませんでした。

コメディーで鍛えてきたこの監督だからこそ、「ジョーカー」を生み出すことができたのだと思います。

Q. 歴代のジョーカー役と比較して、ホアキン版はどうでしょうか? 特にヒース・レジャーと比較されることが多いですが。

A. 実写版映画としては初めてジョーカーを演じたのがシーザー・ロメロ。ただし、この時は、ジョーカーは主役ではなく、あくまで「バットマンの敵大勢の中の一人」という位置づけです。したがってあまり怖くもなく、特徴的な演技やシーンというものも取り立てて見られません。

次に演じたのが、ティム・バートン版のジャック・ニコルソン。とにかく陽気でよく笑い、よく踊ります。ほとんど笑ったりしないバットマンとは対極的で、その陽気さの裏に狂気を秘めている感じは、さすが名優だと思います。

そしてクリストファー・ノーラン版のヒース・レジャー。このジョーカーも笑うには笑うのですが、陽気だから笑っているのではない。彼にとって感情などはどうでもよく、作業のように人を殺し、バットマンをダークサイドへ引き込むべく、ただその目的遂行のためだけに凶行を重ねていきます。

「スーサイド・スクワッド」でのジャレッド・レトは、それまでのジョーカーとは違う姿かたちのため、単純比較が難しいです。言動が陽気ではない、という点では、ヒース版の系統になるのでしょうが、とりたてて印象に残る存在とは言えないでしょう。

これらを踏まえると、ホアキン版は「ヒース版の前段階」という感じになります。つまり、何らかの「動機」があって殺人を犯していたアーサー・フレックが、ジョーカーとなってからは、ヒース版ジョーカーとして、もはや人を殺すための「動機」が存在しなくなります。

Q. それでは、締めをお願いします。

A. アーサーは、人間が生きるためのよりどころである「夢」「仕事」「恋人」「友人」「家族」、これらすべてに裏切られ、あるいは失っています。これを私たち自身に当てはめて考えてみます。私たちがこれらのよりどころをすべて失ってしまったとき、自分ならどういう行動を取るのか、取るべきか、あるいは取らざるべきか、それをアーサー・フレックは教えてくれたのではないでしょうか。