映画漬廃人伊波興一

運び屋の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

運び屋(2018年製作の映画)
4.0
既に『グラン・トリノ』で棺桶に横たわり、他の監督作で『人生の特等席』にまで座った老俳優としてのケリを、どのようにつけようとしたのか

クリント・イーストウッド『運び屋』

2017年にクリント・イーストウッドが主演を兼ねた作品を翌年に発表すると聞いた時、誰もが期待よりも不安が先行したと思います。

すでに私たちは『グラン・トリノ』で棺桶に死化粧を施されたコワルスキーをしっかり見届けた後、『人生の特等席』に主演した際はマルパソプロダクションのプロデューサー、ロバート・ロレンツの監督デビューへの尽力、つまり彼ならではの義理堅さ故だ、とかろうじて受け止めていたからです。

そして『運び屋』はその冒頭から、人知れず世を去る未来しか約束されていないような農園家を演じるイーストウッドの緩慢な動きが自虐的な諦観にさえ見えて痛ましく、麻薬密輸のボスに招かれた屋敷パーティーで二人の娼婦とベッドインまでする場面に至っては老人虐待映画にまで堕していかないか、と不安で仕方ありませんでした。

そんな不安が一気に霧消していったのは、トランクの死体を見せられて初めて表情を膠着させた時。
メキシカンのチンピラから銃を突きつけられてもタマが縮まない虚勢を張った退役軍人の彼が、です。

『グラン・トリノ』のコワルスキー同様に、『運び屋』のタタも、周囲からの冷笑や顰蹙に気づかない、自分だけがその気になっている頑迷さに支配されている事に加え、おそらくは平気で人種差別発言や悪態が尽きない始末に負えない老いぼれであろう事は、パンクしたタイヤひとつ交換できない黒人家族に
(ニガーを手助けでもしてやるか)と呟き、
相手の女性から
(黒人と呼んで頂戴)
と強く諭されるくだりでも明らかです。

怖いものなしで、時代遅れの彼だからこそ『グラントリノ』でモン族のために全身銃弾を受け止めて結着をつけた、あの落とし前に私たちの胸が騒いだのです。

そんな彼が初めて見せる(他人を恐ろしい)と感じる風情は、私たちの既視感には存在しない。(少なくとも私の知る限り恐ろしくて命令に従うイーストウッドは存在してません)

思えば『許されざる者』や『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』では劇中人物たちに残酷なくらい出来過ぎた教義(ドグマ)を禁じていますが、2009年以後の監督作品に於いては主要なキャラクターがまさに誰もが知るような透明かつ明確な人格におさまり、反目を遠ざけるたおやかな視線で約束された余韻を乱す要素を極めて希薄にしていく特徴があります。

そこには明らかに70〜80年代の3本の傑作『愛のそよ風』のフランク・ハーモン、『ブロンコ・ビリー』のブロンコ、そして『Honkytonk Man /センチメンタル・アドベンチャー』のレッド・ストーパルらの姿が浮かび上がってきます。
いささか強引ですが、彼らを鑑として、マンデラ大統領や、フーヴァー長官、歌手フランキー・ヴァリ、狙撃兵クリス・カイルからチェスリー機長、更にパリ行きの電車に乗った3人の青年らの振る舞いを投影すれば、まさにこの『運び屋』のタタが浮かび上がってきます。

 少し花を知っている方ならタタが丹精込めて育てているデイリリーという花が(ワスレグサ)という品種である事が一目で分かると思います。

その和名の由来は花があまりにも美しく嫌なことを忘れられるため、そして食べるとおいしくて嫌なことを忘れられるため、とふたつの説があるそうです。

イーストウッド自身や『運び屋』のモデル、レオ・シャープは、もしかしたら、このデイリリーで自分の年齢を忘れてしまったのかもしれない。
それを裏付けるような台詞が心臓病で倒れた妻ダイアン・ウィーストに語る
(100まで生きようとするのは99になった人間だけだ)
それならば
(88まで役者をしたなら90過ぎても役者をする)だって納得がいきます。

作品への思いを述べる際、監督や主演者の年齢に言及したいわけでもないのですが、事情が通じぬ人々の驚きを誘う効果があるのなら、この時イーストウッド88歳という事実を記すのも悪くありません。

10代20代、それどころか50代で仕事しても自慢にはならない。でも90に届く頃に仕事してれば、時代を超えた年齢不詳の凶暴さに熱くなるしかありません。

ならばいっそ、10年後の2030年、このデイリリーの力で100歳の監督主演作が待ち遠しくなる。
そんな与太話もイーストウッドなら涼しげに実現してしまいそうな気がするのです。