アストラル・アブノーマル鈴木さん (2018)
非常に奇想天外 そして クレイジー
この映画は 壮大な"自己意識"
"私" という "意識の塊" が描かれている
そもそも世の中に 真っ当な人間・普通な人間
なんていやしないし 言うならば 普通もない
必ずどこかはズレているのが人間
物語の主人公グレートYouTuber 鈴木ララ は
宇宙的(アストラル)に意識をこじらせる
異常性(アブノーマル)な部分といえば
共感無・自己中・高圧・威圧・攻撃的
などなど、、、
推測するに "鈴木" という役名は
日本で大多数存在することから
"大多数の人が意識を拗らせてる"
と掛け合わせてる
世の中へのメタファーと考えられる
「メディアは嘘つく生き物だ!」
「YouTuber 舐めてんじゃねぇぞ」
などなど 威勢はとてもいいけど
トコトン ズレて暴走している
一方でどこかユーモアがありつつも
日が当たらない自分に苛立ち
常に社会に中指を立てている
そして自身の運命を呪う
シニカルなキャラクター
さらに
YouTuber やってる割に
夢や目標は特になく
自己意識・承認欲求はそれぞれ100%超え
地方で もがく人のドキュメンタリーの
取材クルーからは拗らせを目の当たりにされ
>あんたみたいな子
>よくいるタイプだから
と一蹴される始末
対して
双子の妹であるリリ
リリは姉の夢を体現した人物
妹が芸能界で活躍する姿に不条理を感じ
選ばれなかった意識をさらに拗らせる
姉-妹の構図ではあるけれど
同一人物が演じてることから
"なっちゃんはまだ新宿" (2017)にも見られた
ある種のAlter Egoがこの作品でも見られる
通常の自分を見つめつつ願望充足的な
もう一方の人格を表現する
表裏一体の芸術
劇中 塾生徒であった女子高生 望月が
『記念に』と称するところに始まった
ギターと歌の演奏動画
結果として望月はSSWとして成功してしまう
彼女が他人の承認を得られたのは
"普通"を積み重ねて 表現を磨き上げたから
動画を撮っていたときに映し出された
"圧倒的な表現"
に眩しく涙してしまう ララ
塾生である望月はやがて羽ばたき
それが "才能" になった結果
皆んなに幅広く共感されることになる
ブランドも
エスカレーターも
Wi-Fiスポットもない
北関東の田舎という
環境が問題なのではなく
YouTubeのチャンネル登録してくれる人が
いないことが問題でもなく
肥大した自己意識が
自由にそして解放される中で
自分と真摯に向き合うことが
必要であるということ
それを体現するラストシーン
ダンススタジオの鏡に映し出された
ララの"コンテンポラリーダンス"
人間の意識を捉える中で本来の昇華の仕方を
実験的に掘り下げていくのが良い
自分に希望がなかったのは
単純にそう思い続けてたから
リリ や 弟ルルオの成長からララ自身も
"正解" じゃなく "答え"を見つける
他の物事を照らし合わせたときに
"正解" は導き出されるけれど
"答え" というものは 自分で見つける
それを見つけたララは人間として
成熟したレベルに成長している
この域はもう他人と自分を比べる必要も
ないし 拗らせる必要もない
"普通" ってやつが1番難しい
けれど ある意味 そんな"普通"を見つけて
アイデンティティを確立していくストーリー