「私はまた少女を見た。
空港にいた少女だ。大きなボールを持っている。
立ち去らせたがまた戻ってきた。私と遊べると確信しているようだ」(トビー)
監督ロジェ・ヴァディム主演ジェーン・フォンダとピーター・フォンダ姉弟による「黒馬の哭く館」
監督ルイ・マル主演アラン・ドロンとブリジット・バルドーによる「影を殺した男」
監督フェデリコ・フェリーニ主演テレンス・スタンプによる「悪魔の首飾り」 の3話構成の怪奇な映画で、幼い頃何度もTV放送で観た初体験のオムニバス映画、エドガー・アラン・ポーの小説が原作の1967年の作品です。
初鑑賞当時は10才くらいだったと思います。3人の監督に対する意識はなかったのですが「黒馬の哭く館」 「影を殺した男」には、熱烈な映画ファンでなくても知られている「ジェーン・フォンダ ピーター・フォンダ」「アラン・ドロン ブリジット・バルドー」が各々主演していることからそれなりに興味があり、ストーリーも分かり易かったのですが、最後の話「悪魔の首飾り」のストーリーは全く理解することができませんでした。それは20才位の時に観た時も、40才位の時に観た時も同じでした。
雑誌『MOE』8月号の「画家ヒグチユウコさんが選んだ映画105」では「悪魔の首飾り」の話だけを切り取って105の映画の1つに取り上げていたことが気になって「もしかしたら最後に観る話だから集中力が途切れているのかも」と思いこの話を改めて鑑賞してみました。
もう1年の間イギリスでは仕事がない映画俳優のトビー・ダミット(テレンス・スタンプ)は、イタリア映画の出演依頼があり、報酬の新車のフェラーリ目当てでローマを訪れます。
飛行場のロビーではフラッシュを嫌いカメラマンにキャリーケースを叩きつける蛮行を行い、TVインタビューでは麻薬やLSDをやっていることを公然と話し、招かれたイタリアのオスカー授賞式では飲酒を始め酩酊状態になり授賞式のスピーチで訳の解らないことを喋り、スピーチの途中で会場を後にすると、玄関に用意されていたFerrari 330 LMB Spiderに乗り込み市街地を猛スピードで爆走して行きます。
初めての土地で道がわからないトビーは猛スピードで路地を入り、行き止まると猛スピードのバックを繰り返し寸断された工事中の橋へたどり着きます。砂利道でもアクセルを緩めないトビーのFerrariは既に接触で歪みライトも片目になり・・・。
トビーは授賞式のスピーチで「私はまた少女を見た。
空港にいた少女だ。大きなボールを持っている。
立ち去らせたがまた戻ってきた。私と遊べると確信しているようだ・・・」と話します。
トビーはスピーチの少し前に会場でその少女を見たのですが最初に見たのは空港の蛮行の時だったのです。そして壊れた橋の向こうに少女を見つけたトビーはクルマをバックさせるとギヤを入れ替えアクセルを踏み込み工事中の寸断された橋に猛スピードで向かいます。
そこには1本のワイヤーが張られていてトビーの顔は無惨にも胴体から剥がされ路上に転がります。少女はトビーの顔を拾い上げ・・・。
何故少女を見ることになったのか?
何故大切なFerrariが壊れるほどの暴走を繰り返したのか?
何故顔が胴体から引きちぎれるような死に方でなければならないのか?
残念ながら今回は何故ストーリーが理解出来なかったのかは出来たのですが、結局ストーリーは理解出来ませんでした。
ストーリーはさておき「映像の魔術師」の異名を持つ監督フェデリコ・フェリーニの作品だけあって、イタリアに向かう飛行機のコクピット内のスタッフを捉えるカメラワーク、空港ロビーで映像に写り込む人間(人形)達の映像はとても不思議で、しっかり観ていなかった今まで見逃していたことに初めて気がつきました。
夜の空港にはじまり、夜の授賞式、夜の市街地と、暗い映画の印象だったのですが、影の中に光りを巧みに取り込む映像美と、敢えて目線を外した前衛的な撮影は今観ても飛び抜けた感覚を感じさせます。
トビーが見た『不気味な少女の圧倒的な美しさに見惚れ、自分が描く少女像の原型になった』と、ヒグチユウコさんが語った真っ白いボールを持った白いワンピースを着た白い少女は大人なのか子供なのか判断のつかない独特の雰囲気があり、言われてみればなるほどボールを持ってそのままヒグチユウコさんの絵の中に登場している少女がいて「悪魔の首飾り」の少女の影響を伺わせる少女の絵も沢山見つけることができました。ヒグチユウコさんが選んだ105本の映画の中で一番自分の作品に影響のあった1本(1話)だった訳ですね。そんな話を知ってしまうとなんだか「ヒグチユウコさんの少女の原型の映画だよ」って誰かに自慢したくなる映画に昇格してしまいますね。