映画漬廃人伊波興一

火口のふたりの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

火口のふたり(2019年製作の映画)
4.4
要約という言葉さえ必要としないようなシンプルな物語であるのに、論理などでは到底導き出しようのない、豊かさにみちたこの細部は何なのだ!

荒井晴彦「火口のふたり」

自分とは何の関係もない他人事なのに、やはり事態の推移を見守らずにはいられない。
映画好きにとっては、気になる(監督業外)の(映画作家)が、初めて自身でメガホンをとったなんてニュースを聞いたときなどが、まさにそれにあたります。
過去にプロデューサーの角川春樹や奥山和由が、作家の村上龍が、俳優の伊丹十三が、挙句は伊勢谷 友介や様々なミュージシャン、喜劇を得意とするらしい花形劇作家やお笑いタレントの某に至るまで、誰がメガホンを取ったなんて聞いても微動だにせぬ者でも、
もし脚本家のジャン=クロード・カリエールが、あるいは作曲家の武満徹が、または撮影監督のレナード・ベルタが、初めて自身でメガホンをとる、なんて聞けば、まともな感性の映画好きなら夜も眠れぬに違いないのですから。

同様の固有名詞が荒井晴彦さん。

何しろクレジットにその名が出れば監督よりもそちらの方に先に目が行ってしまう日本どころか世界中を見渡しても信頼のおける脚本家の監督作品なのですから。

実際その第一作「身も心も」に触れた際には文字通り期待よりも不安の方がはるかに大きかった事を覚えています。

大御所脚本家・橋本忍が自身で監督した「幻の湖」を発表した時のように、それまで培ってきた業界・映画ファンへの信頼を一瞬で失墜してしまうのではあるまいか?と。

結果は杞憂。
「身も心も」は素晴らしい映画でしたし、二階堂ふみを主演にした第二作「この国の空」にも深く心動かされました。

が、三度目になってもやはり落ち着きは取り戻せない。

舞台を原作の中の九州から秋田へ移し、今回で三度目のタッグとなるベテラン撮影監督・川上皓市が切り取る風景が、安定した画面としておさまっている事が却って気になり、もっとぶっきらぼうな感じの方が資質に合ってるんじゃないか、と。

そんな贅沢な不安がいつの頃に霧消していたのか。
いつの間にやら途方もなく心騒ぎ、困惑している自分を発見していました。
傑作とか傑作でないとかという以前に、まずは、しばらく味わってなかったそんな「困惑」を語ってみたい思いに駆られながら、実は語りつくせるかどうか自信がないという思いが勝っています。

そもそも何に対して、またいかなる意味で困惑していたのか自体を把握してないのですから。

前述の通り、舞台は九州から東北は秋田に変更され、それによって言及される“東日本大震災”との““心理的な距離感”に、新たな意味と解釈を加えながら描き出されますが、秋田の澄んだ青空が風景の奥行きを際立たせたり、白昼のまばゆい陽光が人物を背景から浮だたせることもない。

その空が二人の心理を誇張したり、象徴したりすることなく、この作品に相応しい風土として慎ましく二人の背後に行きわたらせております。

ですが本作の魅力は、柄本佑と瀧内公美の官能的な身振りの反復によって(必然)を飼い慣らしていく点。

男女ふたりの身体を装置として活用していくさまは、数多くのにっかつロマンポルノ・傑作郡のシナリオを手掛けてきた文字通り荒井晴彦先生の面目躍如
処女作「身も心では」柄本明を永島瑛子と目一杯、絡ませておりますが、本作では明さんのご子息・柄本佑と瀧内公美というふたりだけの、ほぼ全編“出ずっぱり”と言ってもいい所まで辿り着いてます。

かくも、いわゆる“濡れ場”と“食事”のシーン”のみという徹底したスタイルで描き出されれば、否応なくとも過剰なくらい画面が透明になり観ている私たちは茫然自失するしかありません。

私は映画を観ながら、あるいは観始める前に、タイトルの意味を考えてしまう変な習慣がありますが、もはやそんな詮索など宙に吊ったまま画面と向き合っておりました。

原作者の白石一文さんとの対談で荒井監督が口にした
“身体の言い分”という言葉が印象に残ってます。
以下、荒井監督曰く
(世間的な価値観や倫理じゃなくて、身体がしたい事をさせてあげようという。“自然災害=超自然”に対して、“人間の自然”で対峙しようという事ですよね)

「あの頃に戻ってみない?」と結婚間近に控えた女性を口説くなんて明らかに“男の幻想”とも取られかねないほど一方的。
それは要約という言葉さえ必要としないようなシンプルな世界であるのに、論理などでは到底導き出しようのない、豊かさにみちたこの細部。
それこそが自分の“困惑”の正体でした。

視線自体が交わらなくとも、身体そのものは、それに応えて笑いかける。

そんな(肉体の律義さ)を自覚すれば誰だって、あってはならぬ事態に立ち会った時に覚える小刻みな震えを感じます。

私たちは映画やスポーツを観る時、説得や、大袈裟な仕掛け、離れ業などに触れるよりも、そんな震えこそに感動を覚えるのです。