Kuuta

アスのKuutaのレビュー・感想・評価

アス(2019年製作の映画)
3.6
社会が直視しないで来た潜在的恐怖や歪みがモンスターとして具現化し、強烈なしっぺ返しとなって襲い掛かる。ゴジラに近い形式なのではないかと観ながら考えていた。

一定の犠牲の元に繁栄を享受してきた我々からすると、その逆襲は恐ろしくもあるが、一種の罰(エレミヤ書11章11節)として看過すべきようにも感じてしまう。それは抑圧された弱者の悲痛な叫びであり、革命である。

だが我々は、自らの生活を脅かす「彼ら」をあっさりと殺していく。彼らを生み出した加害者側であり、合わせ鏡でもあるはずの我々が、彼らを排除する身勝手。そこから生じる違和感は、どれだけゴジラが人を殺しても、倒される瞬間はどうしても切なくなってしまう、あの感触に近い。

例えば戦争体験や原発事故は、あらゆる日本人のアイデンティティに刷り込まれている。日本人はゴジラが闊歩する姿にその記憶を刺激され、映画と現実の色んな事象を重ねてしまう。

米国人からすれば、今作での「彼ら」の訴えは、国内で抑圧されてきたマイノリティのそれと自然に重なるだろう。私は土地を奪われ劣悪な居留地に押し込められたネイティブ・アメリカンを真っ先に連想したが、あらゆる経済格差や人種差別(今作の主人公が中産階級の黒人なのが、もはや問題は黒人差別ではないと示す)と「彼ら」を結びつけ得る。メキシコに逃げようと言っていたが、そこには現実に壁が横たわっている。

お金が幸せと強がる父性の脆さ。彼は中流と上流の壁を強く意識している。一方通行のエスカレーター(=ウサギが導く不思議の国)が、アメリカンドリームが成立していない現実を示す。父親の言葉遣いがどんどん汚くなっていくのも面白い。

終盤のレッドとアデレードの教室での会話、なぜか前後の2人両方にピントが合っている不気味な見せ方。スマホとイヤホンが手放せない長女(wi-fiを失う)と、仮面を被る長男は他者とのつながりを拒んで来たが、最後に家族の繋がりを取り戻す(長男には仮面を被るもう一段のオチがあるが)。

左右対称な存在から何を連想するのか=この映画自体がロールシャッハテスト。救急車のミニカー。異世界の赤を示すりんご飴、イチゴ。キルカウントを競う場面は笑えた。町山氏の解説によると、80年代にNYのホームレスが地下鉄に住み着き「モグラ人間」と呼ばれていたらしい(過去の父親はモグラ叩きに興じていた)。

シャイニングオマージュの左右対称な構図、空撮からの車と別荘、双子…。ジェイソンのマスク、ヒッチコックの「鳥」、「エルム街の悪夢」「ジョーズ」「スリラー」。

バレエと殺し合いのカットバック中に入れ替わっていたかも…?という「遊星からの物体X」的なオチでも良かった気がしたが、本当の侵略者は誰なのか、「出自ではなく環境が人を作る」という主題をきちんと明示したかったのだろう。

今の米国を克明に反映したテーマだし、細部まで作りこまれた画面や演技も非常に上質なので、後世に残っていくタイプの映画ではあると思うが、正直話のテンポは悪い。ホラーのみで展開する序盤の緊張感は良いが、次第に荒唐無稽なSF要素、テーマを直接示すような台詞や展開が増え、面白くなりかけてはまた遠のく展開を繰り返していた印象。

自分の見た回ではホラーを期待したのであろう中高生が多く、上映前もITの続編の予告などで良い感じの盛り上がりを見せていたが、終演後はどこかぐったりとした空気が漂っていた。私もこの日は映画3本目だった事もあり、終盤はあくびを連発してしまった。

例えば日本人(と海外のゴジラオタク)以外の人がシン・ゴジラを見ても大半が退屈と感じるだろうし、それと同じなのかなと。頭では理解できるが、多少の粗さに目をつぶってしまうほどのテーマとしての強度、リアリティを味わえなかった。日本の貧困問題への自分の無頓着さの裏返しなのかもしれないが…。

SFへの大胆な転換とコメディ要素はシャマラン風味。裏世界の住人が現実の人間と似た行動を取る(化粧と整形)シーンはロメロのゾンビは勿論だが、名作ホラーゲーム「SIREN」も連想した。73点。
Kuuta

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