ニューランド

看守殺しの序曲のニューランドのレビュー・感想・評価

看守殺しの序曲(1979年製作の映画)
4.1
☑️『看守殺しの序曲』及び『秀』▶️▶️
山本政志とは世代的に近く、同じ頃に1.2作目の8ミリ映画を撮ったりしてるが(私の高校時のは、カメラ位置とカット長さ、編集の肝要、繋ぎはここの齣とここ、と指定役の参加で、機材触れず、字幕担当もdirector等を知らず、ノンクレジットになったが、山本のも作品と云うにははみ出てる)、やはりまるで違うなぁ、と唸った。先日観た「ウィンター·ブラザース」の日本版とでもいった、社会の片隅の孤独な狂気の、不思議な棲息が描かれ、北欧のより妙に几帳面で、味わいも深い。カメラ位置も微細で丁寧で、あぶれがちな反社会性帯びる物への偏愛·執着が変な領域に進んでくエミールに対し、本作は殆ど意識·意味合いのないゴミや汚れた中から、変形したままで紙片他を集め、その性質を残したままで、街の一角(のミニチュア小世界)を、自分のセンスのみから浮き上がらせ出現させてゆく(冒頭の近場実際の家並みショット群の屋根列び中心の捉えセンスや美に呼応)。それを炎で端々から包んでゆき、弾を投げつけて破壊してゆく。それを土間かなんかで蝋燭も立て·また繰り返してゆく。見捨てられたマイナス状態の物を再生し、いっとき浮かばせるも·より深いマイナスに戻し屈辱的かな、を与えてく作業。終盤の、不思議な佇まいの人ら、雪を被った山の林、入水するを待ってる浅瀬、等を途中から「ケンパッ」しつつ跳梁してゆくは、飛び回るカラス捉えの不安定揺れショット挟みはいいが、ややパターン飛躍が過ぎるが、炬燵·毛布·プレイヤー·洗濯バサミ·顔面らを扱い溶け合いながらの寝起きか、カメラ位置も壁押さえ·身体半身起きへの90°変や炬燵板越しと切り換えが不思議な普通気付かない的確さを示す所から入っての、海岸で洗い、住居(不思議な旧さも)や長屋?から通りから商店街へ出てく(やや俯瞰め)どんでんの光景進化、都市部での制服での清掃の仕事の広さや実効性の絡まる柔らかみと厳しさ、等での小道具·角度の積み上げの、リアリズムを超越した、自己世界を手離せない手堅さの持続が、どんな映画に於ても似たのは決して見られないものだ。殆ど知識がなく、手探りで作っていったと上映後、作者が語っていたが、この代替えの出来ない手触りの独自さ·確かさは、おなじ?状況だった、初期ルノワールの作風·スタンスを思い起こさせる。しかし、足をそこに着けたままではいられない、社会の忙しさ·揺るがなさ、いつ決定的に膨れ上がりかねない社会不安、ダルなイージー気質一般が、流しっぱなしのラジオ音声、食堂のカップルや家の老人ら会話、から包み並行し続け、本物の危険や破壊が秘められ、その火付けを彼が担うになんの不思議もない、ひとつの自然が流れている。強引だが、ちっとも嫌らしくなく、若者らしい性急さが誠実さに直結する。
汚ないのや闇のウェイトも大きく、鳴き声によっては鼠も扱ってた気もするが、湿り気·光の限定·汚れ·崩れの、建物や部屋内外が、個人の特異で唯一の宇宙の投げ掛け·引き込みで、不思議な普遍性をグラグラしつつ、示してて、デクパージュの僅かなパン(·移動やズームも)·ロー(股ごし)·俯瞰·(三段)縦の図·当時でしかない家具、らの微妙もその瞬間それしかないテクニックの、映画内外一体化も寄与している。様々な色合い·範囲を占めるオレンジ系生気滲み出し空間が、単調を超えた生のニュアンスがある。
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今日はこの後の、以前観てあまりピンと来てない『聖テロリズム』の方をで、休みを早くに申請してたが、夕刻仕事の欠員が生じ、出勤で埋めるとなったので、その前プログラムの本作と、セット作·最初期の作品というかシュート断片『秀』、九州弁丸出しで果てなく喋りまくる友人(ら)の何を問題にしてるかもあまり分からない(自衛隊除隊後の帰郷、早すぎ結婚と離婚模索、持ち金不足と·たちまち泊まる所押し掛け、らか?)が、ジャンプカット的確かな呼吸カット·フィット僅かパン·カメラ前塞ぎ人·家具や公衆電話·ウンコ座り通話·子ら家族や作者の介入·車内も·室内と広い広場、らの写し込みの、よりオンリーワンのひと息長い世界現出が見事、を観る事にした。どちらにしろ、習作的で評価は難しいのだろうが、この種の非常に貴重·愛おしい作品を割りと最近よく目にする(し、素晴らしいと思う。『ここにあなたの~』『ギリアップ』『ウィンター·ブ~』ら)。山本はこの後『ロビンソン~』を頂点とする、よりユニーク·グローバルに無国籍なある種平板·方向定めぬテイストで鮮やかな世界を拡げて行くが、個人的には、それら話題に惹かれ·封切りで観たのと·『熊楠』パイロット版ら催しで観たのを併せても、昨日まで5.6本位しか観ていない、名前だけはよく聞く作家でしかなかった。今回の催し、今日以外に予定にはなかったが、また別の作品を観(直してみ)たいと思わせる、作品を練り上げ·綴る手口ではあった。そんなつもりからの映画ではないが、そのチグハグ惹き付けの方が映画だ。
それにしても劣化を感じさせないフィルムは、保管の丁寧さや、リヴァーサル·タイプのためか。また、上映自体もセッティングにたいそうな時間を要し、8ミリフィルムという失われつつあるメディアの神話·神秘性を呼び起こしてるようで、余計感じるものがあったのかも。近くの席にいた、FC等でよくお見掛けし、談義の中心にいる人を含めた、複数の方が早々と、上映中に席を立っていった。新東宝’60前後は、映画として容認できる以上に語り尽くせるが、この辺は映画の最低限のレベルでもない、という解釈か。プロの映画しか認めない、と言うはちと残念。真の傑作は両面を備えて初めて生まれるのは、周知の筈なのに。
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