さすらいの用心棒

ドラゴンクエスト ユア・ストーリーのさすらいの用心棒のレビュー・感想・評価

1.3
魔王復活を食い止めるために闘う親子三代を描いた伝説のゲームを映画化。


ドラクエをプレイしたことないから思い入れなんてないはずだけど、これはクソ映画です笑 あまりの出来に怒りがこみ上げる。ファンなら尚のことだと思う。

懐かしのファミコン画面から始まり、すぎやまこういち氏の音楽とCGのファンタジーな世界観に最初は「おお!」となるものの、次第に山崎貴監督の悪いクセが露呈しはじめ「お?」となり、最悪のラストになだれ込んで「あ~あ」となってしまう(笑)

アニメーションの定型に則ったジェスチャーや表情の安直さ、動作のたびに一間置いてポーズをとるくどさ、アングルのセンスのなさ、人間に対する共感の浅さ。とにかく全体としてアニメ映画として恥ずかしくない作品を作ろうという努力が足りなさすぎる。

歌舞伎じゃないんだからイチイチ見栄を切る必要なんてないし、そのあいだ時間が止まってしまうせいで恐ろしくテンポが悪い。絵巻ものを意識した平面的な画づくりはたぶん山崎貴監督が尊敬する溝口健二監督へのリスペクトなのだろうけど、どう考えてもドラクエの世界にはそぐわない。どういう感性をしているのか、本当に不思議。




そして、ラスト(勘のいい人にはネタバレになると思います)。





賛否がわかれるのはここの是非が大きいと思う。

前半で軽くネタバレされるけど、主人公は原作『ドラクエⅤ』のとおり勇者ではなく単なる「普通の人」という立ち位置にいる。しかも、映画化にあたって原作にあった「王家の血筋」も剥奪され、「天空人の血筋」もビアンカにとられてしまい、我々により近い一般人に追いやられている。

そんな一般人が最後に「勇者」になるのがこの映画のストーリーであり、それは『ドラクエ』をプレイしているあいだだけは「勇者」になることができる我々にも重なる。

だからこそこの映画は『ユア・ストーリー』であり、「あなたも勇者になれる」というメッセージの力強さが際立つのである。

それ自体はいいとは思う。けど、あまりにも伝え方に難がありすぎる。

あんなに唐突では多くの人がパニックになりすぎて、そのあとの展開が全然頭に入ってこないんじゃないか、と。そして、『ユア・ストーリー』の意味に思い至るまえに、ほとんどの人が鼻白んだ空気に居心地の悪さを覚え、釈然としないのまま劇場を立つことになる。

何より、愛着のある世界観を否定される怒りは、ファンだったらなお許せないんじゃないか。今までの喜びや悲しみはすべて虚構だから、と作品から突きつけられることの不快感は、言いようがない。映画は虚構だということはわかって見ているのだから、それをひけらかす必要なんて全くない。

すくなくとも劇場を出た気分としてはここ10年で最悪の部類だった。

それより、何よりも腹が立ったのは、監督がメッセージ性を優先しすぎて大事なものを切り捨ててしまっていることだ。

それは、ラスボスが言っていた「大人になる」こと。ゲームに逃げるばかりでなく、自分たちの世界でも勇者になろうとすることだ。

むしろそっちのほうが大事じゃないのかと思ったけど、主人公がラスボスとともにそれを粉砕したことで、この作品は現実逃避を全面的に肯定すると同時に、大人になることを否定してしまった(奇しくも同じ「ゲーム」を扱ったスピルバーグ監督『レディ・プレイヤー1』の結末とまったく逆なのは興味深いと思う)。

山崎貴監督は今年55歳。ウチの親父とほぼ同い年になる。「大人になるなんてヤだ。ゲームさいこー!」と言っていたかつての子どもが、自分の子を持つ年になってまだ同じことをほざいている。この映画がまかり通ったのも、それを許す同じような大人が増えたためだろう。世も末だと思う。

そういうわけでテーマ性を見ても、一本の映画として見ても、監督に石を投げつけたくなる作品だった。

女の子は可愛かったけどね。

ゲーム自体は素晴らしい作品らしいので、これを機にファミコンを引っ張り出そうと思います。

そして、『ドラクエ』を真に愛している人はこの映画よりも『勇者ヨシヒコ』を見直そう!