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ペトルーニャに祝福をのumiのレビュー・感想・評価

ペトルーニャに祝福を(2019年製作の映画)
5.0
ペトルーニャは革命的だ。ペトルーニャは生活をつよく、つよく生きている。女性、若さ、容姿、伝統、信心深さ、など、周囲から向けられる眼差しに対して痛みを伴いながら、それでも対話を繰り返し、自分を守る闘いを、身振りの中に体現している。暴行を受けたにもかかわらず、ペトルーニャは「私は(自分が)動物みたいな気がする」と漏らす。だが狂っているのは「世界」である。「世界」との関係の中で、自分をつよく打ち立てる。ペトルーニャは「性差別」「権威主義」「官僚制」などといったありふれた概念などを用いて「世界」を批判したりしない。相手の話をきいてそれに応えていく中で、揺らぎやズレを生んでいく。ひとりの個人の態度である以上、それは一般的に用いられる「革命」のような、(ペトルーニャが関心を持っていた)中国革命(文化大革命)のような、大きな政治革命や運動とは異なるだろう。だが、ペトルーニャが体現しているのは、自らの身体を通して溢れ出てくる、目まぐるしい運動である。ここに革命を見出さずして何を見るのだろうか。ついつい大きな「革命」に目を向けてしまう者たちは、ペトルーニャの存在に撃ち抜かれるだろう。そして(今私がしているような)分析するかのような視点も、打ち破られていくのである。

ペトルーニャがいる、毅然として存在している、母の前で、国家の中で、警察署の中で。寝転んだり、立ち上がったり。カメラの前にペトルーニャが存在しているというのではなく、むしろペトルーニャがあるところにカメラが向かっているのである。そしてそのカメラを通じて見ている私がいる。いや違う。ペトルーニャはこちらを覗き込んでいるのである。正確に言うと、目を見開き、「人間」を見ている。信じている。私も目を見開き、ペトルーニャに見入っている。

幸運になれるという「十字架」を司祭=協会=男性に返したペトルーニャには幸運が訪れている。それは自分に理解を示してくれる人に出会えたことである。これまでひとりで受け入れられずに生きてきたが、毅然としなくとも話すことができる人に出会えた。涙や泣声を聞いてくれる人に出会えた。これがペトルーニャにとって何よりも幸運だったのだ。喜びが溢れて仕方のない表情で、警察署から出ていった。私も嬉しい気持ちになり、つい笑ってしまった。いまの私にとっての幸運とはなにか、ペトルーニャに出会えたことである。
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