あるアクシデントをきっかけに、世界で最も有名なロックバンドといえるビートルズが存在しない別の現実世界へ迷い込んでしまったしがないミュージシャンを主人公にした、ファンタジー映画。
「トレインスポッティング」や「スラムドッグ$ミリオネア」を手掛けたダニー・ボイルが監督を担っている。
自身のオリジナル曲でスターになることを目指すも挫折しかけていた主人公が、ビートルズという偉大な存在を覚えているのは自分だけという世界で、彼らの作品を自分のものと偽ることで成り上がっていく過程が、誰でも一度は聴いたことがあるであろうビートルズの楽曲達を用いながらテンポよく描かれていき、ダニー・ボイル監督の非凡な演出センスをじっくり楽しめる。
それぞれの楽曲の歌詞と主人公のその時々の心情が重なるところも、古典的な手法ではありながら、とても面白いと感じた。
同監督の他作品と比較すればややマイルドなテイストかなとは思うけれど、この作品の脚本と物語にはマッチしている。
主人公のミュージシャンを演じるヒメーシュ・パテルと、その幼馴染を助演するリリー・ジェイムズの演技が全篇を通じてとても愛らしく、純朴な2人が劇的な変化に巻き込まれ苦しみながらも重大な決断をするに伴い生まれる心の痛みに、大きく共感してしまった。
単純にドタバタなラブコメディとして鑑賞することもできるけれど、この映画の主人公のように何かオリジナルなものを自分で生み出して名を成したいと願いつつも挫折や苦闘した経験がある人ならば、主人公の心情に共感できる部分がとても多いのではないか。
ビートルズがもし存在しなかったら、私達が知っている歴史にどんな副次的な影響や変化が生じるのかといったSF視点のウィットが脚本に組み込まれていて、言われてみれば確かにそうかも知れないねと感じるネタが多く、物語の本筋ではないところではありながら笑ってしまうシーンがたくさんあった。
それに加えて、現実世界における現代のスーパースターともいえるあるミュージシャンが本人役で出演しており、かつかなり重要な役どころを担っていて、そのノリの良さと懐の広さに驚かされた。
主人公が最後に大きな決断するきっかけとなる助言をする、ある人物が登場するシーンでは、言葉ではなかなか形容しがたい感情と涙が溢れてしまった。
ビートルズが存在しなければその影響で失うものが山ほどあるけれど、誰もが知っているあの悲劇も存在しなくなるはず、だとすれば彼は今もあり続けたかも知れないという脚本のツイストに、喪われたものへの想いが込められていて、素晴らしい。
SF的なセンス・オブ・ワンダーと、もしかしたらこんな現実もあり得たのかもと空想することの原点的な面白さを思い出す、とても価値のある映画体験だった。
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